古田織部とは?切腹した理由や家紋、有名な作品や子孫について解説!

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古田織部とは戦国時代から江戸時代初期に活躍した武将です。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に与しました。

しかし大阪冬の陣頃から、豊臣氏と内通していたとされ、徳川方の軍議秘密を漏らしたとして捕らえられ古田織部は切腹を命じられ生涯を閉じました。

茶人としても知られ千利休に弟子入りした古田織部は、千利休とともに茶の湯を大成したとされています。

そんな古田織部の生い立ちや切腹した理由、茶人としての有名な作品や子孫について解説していきます。

古田織部の名前

古田織部という名前は本名ではありません。

本名は古田重然とされています。

「織部」という名前は壮年期に官位、従五位下「織部助」を与えられたことから由来しています。

 

古田織部の生い立ち

天文12年(1543年)現在の岐阜県である美濃国の国人であった古田重安の弟・古田重定の嫡男として誕生しました。

嫡男であった古田織部ですが伯父・重安の養子として迎えられることとなります。

古田織部は武士であった父・古田重定と同じように武士を志し、武士として育てられてきましたが、一方で茶の世界に興味を抱いていたとされています。

しかし、古田織部の名前が初めて茶会の記録に登場するのは天正11年(1583年)のことで、この時古田織部が40代頃でした。

また、松屋久重によって編纂された「茶道四祖伝書」には佐久間不干斎からの伝聞として、「古田織部は若いころは茶に興味がなかった。しかし、中川清秀に勧められ茶の世界に興味を持つようになった。」と記されています。

このようなことから、古田織部が茶の世界に興味を持つようになったのは壮年期頃からではないか。とも推測されています。

織田信長に仕える

古田織部は武士として美濃国の守護大名土岐氏に仕えていましたが、永禄9年(1567年)頃から織田家に仕えるようになり、織田信長の家臣として使番を務めました。

翌年には織田信長とともに上洛をはたし、摂津攻略に参加したとされています。

永禄11年(1569年)には摂津国の茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚しました。

 

武士としての経歴

その後、天正4年(1576年)山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となり、天正6年(1578年)7月には播磨神谷城攻めの使番となり良い働きぶりを見せます。

天正6年(1578年)11月、織田信長の家臣であった荒木村重が謀反を起こすと、荒木方についていた義兄・中川清秀を織田方に連れ戻すことに成功し、織田家の勝利に導きました。(有岡城の戦い)

その後も、豊臣秀吉が行った播磨攻めや、明智光秀が行った丹波攻め、甲州征伐に義兄である中川清秀とともに出陣します。

 

豊臣秀吉に仕える

主君・織田信長が天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で亡くなると、古田織部は豊臣秀吉に仕えるようになりました。

豊臣秀吉に仕えた古田織部は天正11年(1583年)正月に滝川一益を攻め、同年4月には賤ヶ岳の戦いで功績をあげます。

この賤ヶ岳の戦いにおいて義兄・中川清秀が戦死すると、古田織部は中川清秀の嫡男・秀政の後見役となりました。

その後、中川清秀の嫡男・秀政とともに小牧・長久手の戦いや紀州征伐、四国平定に出陣します。

 

武士としての経歴

天正13年(1585年)豊臣秀吉が関白に就任すると、古田織部は「従五位下織部助」に任ぜられ、九州征伐や小田原征伐に出陣します。

文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵では朝鮮に渡らず名護屋城東二の丸に在番衆として日本に留まりました。

茶人としての活躍

朝鮮出兵が行われる少し前の天正10年(1582年)から豊臣秀吉に仕えていた茶人・千利休の書簡に古田織部の名前が登場し始めます。

この頃からから千利休と交流を持つようになったとされ、弟子となった古田織部は千利休とともに茶の湯を大成していくこととなります。

しかし、天正19年(1591年)頃から千利休は豊臣秀吉と対立関係となり、その後、追放処分を受けることとなりました。

茶人としての古田織部の評価は、後に「利休七哲」に数えられるほど高いもので、千利休亡き後は天下一の茶人となったとされています。

 

徳川家康に仕える

慶長3年(1598年)頃になると、古田織部は家督を嫡男・重広に譲ったと考えられています。

主君・豊臣秀吉が亡くなると、その後、天下統一を目論む徳川家康と石田三成が対立するようになり、関ヶ原の戦いが勃発します。

古田織部は関ヶ原の戦いにおいて東軍に味方しました。

この頃になると古田織部は茶の湯を通して朝廷や貴族、また寺社との関わりを持つようになっていたとされ、全国の大名に大きな影響を与える茶人となっていたとされています。

そのため、2代将軍・徳川秀忠は大名に強い影響を与えることのできる古田織部を茶の湯の指南役に抜擢しました。

 

切腹をした理由

慶長20年(1615年)大坂の陣が勃発します。

この戦いは江戸幕府と豊臣家との間で行われた戦で、古田織部が江戸幕府に味方していました。

江戸幕府に味方していた古田織部でしたが、重臣である木村宗喜が豊臣方に内通し京都に火を放つといった計画を企てたとして京都所司代の板倉勝重に捕らえられるといった事件が発生します。

しかし、大坂の陣頃になると、古田織部も豊臣方と内通していたとされ、徳川方の軍議秘密を漏らした疑いで捕らえられることとなりました。

捕らえられた古田織部は切腹を命じられることとなり、大坂落城後の慶長20年(1615年)6月11日、73歳で人生の幕を閉じました。

有名な作品

古田織部は武士だけではなく、茶人としても活躍しました。

千利休に弟子入りした古田織部は千利休が確立した詫び寂びの茶の湯を継承しながらも、詫び寂びとは対照的に大胆で斬新なデザインをした茶碗を好んだとされています。

古田織部が好んだ大胆で斬新なデザインは「織部好み」と呼ばれました。

古田織部は自身の考えたデザインを職人や陶工らに造らせ、茶の湯のデザイナーとしても活躍していました。

古田織部によって制作された陶器は「織部焼」と呼ばれ、中でも「黒織部鷺文筒茶碗」や「鳴海織部扇面鉢」は有名な作品となっています。

 

家紋

古田織部が使用した家紋は三引両と呼ばれるものです。

 

子孫

古田織部には前田利常の家臣となった重尚、池田利隆の家臣となった小三郎、豊臣秀頼の家臣となった重行、徳川秀忠の家臣となった重久と4人の子供たちがいました。

しかし、4人とも古田織部が切腹した際に共に自害し亡くなっています。

古田織部が亡くなると、茶の湯は娘婿の古田重続が藩内のみで継ぐこととなりました。

その後、明治維新によって幕府が廃止されると古田織部の子孫たちは織部流の普及に務めたとされています。