大山巌とは?元帥についてや西郷隆盛との関係、家系図や子孫を解説!

初代陸軍大臣、陸軍参謀総長、内大臣、大警視(警視総監)を歴任し、日清、日露戦争では日本軍を勝利に導いた大山巌(おおやまいわお)陸軍元帥。

薩摩藩出身で大山巌の父が西郷隆盛の父と兄弟、すなわち西郷隆盛とは従兄弟の関係にあった人物で、若い頃には過激尊王派の志士として名を馳せていました。

軍人として大きく才能を開花させた大山巌がどのような人生を送ったのか、子孫や家系図などを含め、幕末から明治にかけての日本の戦争史とともに振り返ってみたいと思います。

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大山巌の生い立ち

1842年11月12日(天保13年10月10日)に薩摩国(現在の鹿児島県)鹿児島城下で薩摩藩士・大山綱昌(おおやまつなまさ)の次男として誕生。

従兄弟に当たる西郷隆盛の15歳下、後に海軍元帥となる西郷従道(さいごうじゅうどう )の1歳上になります。

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西郷隆盛に憧れていた?

幼少期から郷中教育(薩摩藩の武士階級子弟の教育法)を西郷隆盛から受けたと言われており、青年期にはすでに西郷隆盛に心酔していたことは間違いなさそうです。

精忠組(西郷隆盛をリーダーとする薩摩尊王派の集団)にも属しており、有馬新七(ありましんしち)らの影響が大きく、精忠組でも過激派の部類に属していました。

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謹慎処分を受ける

1862年の寺田屋事件では奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)ら公武合体派の説得を受け投降し、帰藩謹慎処分を受けています。

しかし、翌年の1863年に起きた生麦事件の解決と保証を求めに来たイギリス艦隊との間で戦闘となった薩英戦争により、謹慎処分が解かれて砲台に配属されますがイギリス艦隊の大砲の火力や威力に衝撃を受け、当時日本でもっとも大砲に先進的であった幕臣・江川英龍門下で砲術を学びました。

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戊辰戦争へ参戦

1686年に戊辰戦争が始まると薩摩藩の新式銃隊を率いて鳥羽伏見から宇都宮城攻撃、白河城の戦いに参加、鶴ヶ城攻めの最中に右脚を狙撃されて負傷、後方へ送られて療養を余儀なくされます。

その後鹿児島に帰ると砲術塾で後進の指導に当たりながら、オランダ製12ドイム臼砲(きゅうほう)やフランス製四斤山砲(よんきんさんぽう)を改良し独自の大砲を完成させ、それらは「弥助砲」と呼ばれました。

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ヨーロッパ視察へ

明治2年(1869年)にはヨーロッパへわたり普(プロイセン)仏戦争を視察、その後ジュネーブへ留学し海軍造船所や兵器製造工場などヨーロッパの近代化を目の当たりにしました。

大山巌が留学先で勉強している最中に、日本では西郷隆盛が征韓論に破れ鹿児島に戻り、西郷に同調した軍人や政府関係者約600人も職を辞して鹿児島に戻りました。

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西郷隆盛の説得を試みる

大山巌の留学先のジュネーブに同郷の先輩である宮内少輔・吉井幸輔(よしいこうすけ)が岩倉具視の使者として訪れ、西郷隆盛の説得を依頼、大山巌は一度は断りますが、国家と薩摩の危機と説得されて帰国の途に着きます。

帰国後、すぐに薩摩に赴いた大山巌は約1ヶ月もの間、西郷隆盛を説得するも西郷隆盛の意思は固く、これを断念し大久保利通に説得不調を報告しました。

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大山巌と西郷隆盛

1877年、西郷隆盛を盟主としてついに鹿児島が暴発、西南戦争が勃発しました。

大山巌はこの時、陸軍少将・別動第五旅団司令官に任命されており、西南戦争にも出撃しました。

西郷軍が熊本城攻防戦に破れて鹿児島に戻り城山に立て籠ると大山巌は攻城砲隊司令長官に任じられ、1877年9月4日城山を総攻撃、西郷隆盛は自刃しました。

戦死者の検死で大山巌は西郷隆盛の遺体を見ることができず、また西郷隆盛の妻であるイトに慰労金を渡そうとして拒否され、西郷家,大山家の女性達に泣きながら今回の処理について非難され、大山巌はこれからのち西南戦争については一言も語らなくなったと言われています。

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日清、日露戦争~晩年まで

西南戦争が終結した翌年の1878年大山巌は陸軍中将に昇進、1885年太政官制の廃止に伴う伊藤内閣では陸軍大臣に任命され、1894年の日清戦争では大将に昇進していた大山巌は陸軍第2軍司令官として活躍、1898年に天皇の軍事最高顧問機関として元帥府が創設されると陸軍元帥の称号が授与されました。

1904年の日露戦争では満州軍総司令官として日本軍の勝利に貢献し『陸の大山・海の東郷(東郷平八郎)』と称賛されました。

日露戦争後は栃木県の那須に退き、田を耕して老後を過ごしていましたが、大正5年12月10日永眠しました。

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子孫や家系図

大山巌は先妻・沢との間に四女、後妻・捨松との間に二男,二女をもうけました。

娘のうち次女・美津子は早世で六女・永子は流産でしたが、あとの4人は他家に嫁ぎました。

 

長男・高(たかし)

長男の高(たかし)は海軍士官候補生時代に巡洋艦・松島の爆発沈没事故で殉死、次男の柏(かしわ)は陸軍少佐で退役後に慶應義塾大学で教授を勤め、日本の考古学分野を確立、戊辰戦争研究家としても有名です。

 

柏の長男・梓(あずさ)

柏の長男・梓(あずさ)は海軍大尉で退役、広島大学,帝京大学で教授を歴任。

 

次男の桂(かつら)

柏の次男の桂(かつら)は東京大学卒業後、資源科学研究所や鳥羽水族館などで研究員として勤務、生涯独身で研究一筋の人物でした。

 

さいごに

大山巌は若いときから軍事的才能の一端を示し、西郷隆盛らから将来を嘱望されていました。

薩英戦争以降、薩摩が関わった戦闘でその才能を発揮し、恩師で従兄弟でもある西郷隆盛の息の根を完全に止めたのも大山巌でした。

その後何度も総理大臣候補にあげられながらその座につくことはなく、常に一軍人として奉職したのは一重に自分の手で西郷隆盛を討ち取ってしまったという惜念の思いからではないでしょうか。

日清,日露戦争でも日本を勝利に導く用兵を行い、軍人として最高位の元帥に任じられた大山巌は、葬儀の時には敵国であったロシアから参列したロシア大使以外にロシア軍を代表してヤホントフ少将が大山家を訪れ、弔詞を述べ花輪を霊前に供えました。敵国にも自軍にも尊敬され愛された大山巌陸軍元帥は1916年(大正5年)12月10日内大臣に在職のまま、この世を去りました。

薩摩が生んだ陸軍最高の軍人は死の間際まで映画「八甲田山」の劇中歌で使われた軍歌である永井建子作曲の「雪の進軍」を聴いていたそうです。

最後まで軍一筋の薩摩隼人だったのでしょう。

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