京阪電鉄中書島(ちゅうしょじま)駅から歩いて5分、京都市伏見区南浜町263番地に現在の寺田屋は建っています。
この寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失した本来の寺田屋の西隣に再建されたもので、刀傷や弾痕等は幕末時代についたものではないと観光案内では説明されています。
再建される前の寺田屋は幕末の時代小説には頻繁に登場し、坂本龍馬の常宿で彼の妻お龍が働いていた船宿でした。
この寺田屋は2度、歴史的に大きな事件の舞台となり、その結果が日本の未来に大きな影響を与えていくことになります。
その2度の大事件の最初の事件、薩摩藩尊王派が島津久光によって粛清された別称「寺田屋騒動」について今回はわかりやすく解説していきたいと思います。
寺田屋事件とは
文久2年4月23日(1862年5月21日)に発生した薩摩藩の事実上の指導者・島津久光が薩摩藩尊王派による倒幕の挙兵を未然に防ぎ、これを粛清した事件を寺田屋事件と言うのですが、この4年後の慶応2年1月23日(1866年3月9日)薩長同盟の締結直後に寺田屋へ宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方が包囲、坂本龍馬を捕縛もしくは殺害しようとした事件も寺田屋事件と言われ、こちらは別称「寺田屋遭難」と区別して呼ばれています。
二つの寺田屋事件が混合される理由
この二つの寺田屋事件はよく混同されることが多いのですが、その理由は両事件がともに薩摩藩が関与していることにあります。
最初の寺田屋事件(寺田屋騒動)は薩摩藩の藩士同士が寺田屋で斬り合うという凄惨な事件となり、薩摩藩自身が大きな痛手を受けた事件なのですが、坂本龍馬が囲まれた寺田屋事件(寺田屋遭難)に薩摩藩は直接関係はないのですが、伏見奉行所の包囲を破って寺田屋から脱出した坂本龍馬を探しだして保護したのが京都薩摩藩邸の藩士達で、それを指揮したのが西郷隆盛だったと言われています。
すなわち両方の寺田屋事件がともに寺田屋へ駆けつけたのが薩摩藩の武装した藩士であったことが、この二つの事件を混同させているのです。
薩摩藩の寺田屋事件
文久2年(1862年)4月16日京都に到着した島津久光は薩摩藩兵一千名を率いており、尊皇派の志士たちはこれが倒幕の尖兵になると信じていましたが、当の島津久光にその気は全くなく、彼自身は亡き兄の島津斉彬(しまづなりあきら)が推進しようとしていた公武合体派で朝廷、幕府そして薩摩を始めとする雄藩が政治的な提携を結んで国政を動かすことを是としていました。
この考えを逸脱する薩摩尊王派の考え方が久光には許し難い行為に写り、これを粛清しようと考え、西郷隆盛や村田新八らはすでに捕らえられて大阪から薩摩へ帰され、久光は入京後すぐに朝廷より尊王派志士の粛清を命じられます。
寺田屋事件の経緯
この事実を知った薩摩尊王派の有馬新七(ありましんしち)、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)らは真木和泉(まきいずみ)を代表とする諸藩の尊王派志士と共謀し、関白・九条尚忠(くじょうひさただ)、京都所司代・酒井忠義(さかいただあき)を襲撃することで久光に決起を促そうとし、その謀議のために寺田屋に集結しました。
この知らせを聞いた久光は激怒し、側近の大久保一蔵(利通)や奈良原喜左衛門を派遣して思い止まるよう説得させますが、失敗に終わります。
決起が迫っているとの注進を受けた久光は再び説得するために鎮撫使(ちんぶし・事を納めるための使節)を派遣しますが、今回は投降しない者は討ち取ることもやむ無しの復命を付けての派遣だったので、在京藩士のなかでも剣術に優れた者が使者に選ばれており、薬丸自顕流の大山格之助(おおやまかくのすけ・綱良)、道島五郎兵衛(みちじまごろべえ)、奈良原喜八郎(ならはらきはちろう・繁)ら8名が選ばれました。
寺田屋事件の状況
寺田屋に到着した鎮撫使一行は、とりあえず面会を申し入れますが拒否され、仕方なく力尽くで中へ押し入ろうとしましたが過激派藩士に阻止され、押し問答となります。
結局、過激派藩士側の有馬新七、柴山愛次郎、田中謙助(たなかけんすけ)らと鎮撫使側とが一階で話し合うこととなりましたが、藩邸への同行を求める鎮撫使側とそれを拒否する過激派との話し合いは平行線を続け、これに我慢できなくなった鎮撫使側の道島五郎兵衛が田中謙助に斬りつけたのを発端に薩摩藩士同士の激しい斬りあいが始まってしまいます。
同士討ちの始まり
両陣営が狭い旅籠の中での死力を尽くしての戦闘になったため、寺田屋の一階は目を覆うような惨状となります。
その中で有馬新七は直心影流の達人でしたが戦闘の最中に刀を折ってしまい、渡り合っていた道島五郎兵衛を壁に押さえ付けると近くにいた橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に向かって「我がごと刺せ」と叫び、橋口は有馬の背中から刀を突き刺して道島をも殺害しました。
一階の騒ぎに気付いた柴山景綱(しばやまかげつな)達が刀を持って階段を降りようとしましたが、階段下で刀を捨てた奈良原が立ち塞がり、「君命だ、同士討ちは止めて、藩邸へ同行してほしい」と訴え、これに真木和泉らが同調したため、お互いが刀を鞘に治めることができました。
寺田屋事件の後始末
鎮撫使側は道島五郎兵衛が死亡、森岡善助(もりおかぜんすけ・昌純)が重傷、奈良原喜八郎以下4名が軽傷、過激派藩士側は有馬新七以下6名が死亡、田中謙助・森山新五左衛門(もりやましんござえもん)が重傷となり、7名もの未来ある若者が命を落としました。
しかし悲劇はここで終わらず、二階にいて投降することとなった西郷信吾(さいごうしんご・従道)・大山弥助(おおやまやすけ・巌)ら21名が帰藩ののち謹慎処分となり、諸藩尊王派志士はそれぞれの藩へ帰され、所属のない浪士に関しては薩摩藩引き取りとなりましたが、田中河内介(たなかかわちのすけ)以下6名は薩摩へ連れて行かれる途中に惨殺され遺体は海へ捨てられました。(5名の遺体は漂着先で埋葬されています。)
薩摩藩京都藩邸にいて病気療養のため寺田屋の会合に出席しなかった山本四郎(やまもとしろう・義徳)も帰藩、謹慎を命ぜられますがこれに服さず結果的に切腹となり、また重傷で藩邸に運ばれた田中謙助・森山新五左衛門の2人も後に切腹を命ぜられ、寺田屋で討たれた6人と後に切腹した3人の合計9名は寺田屋事件・薩摩九烈士として京都市伏見区鷹匠町にある大黒寺(だいこくじ)に葬られています。
寺田屋事件と西郷隆盛
幕府と朝廷の間を斡旋するために島津久光は上洛しようとしますが、京都に手蔓がなかったため、仕方なく西郷隆盛を奄美大島から呼び戻します。
しかし、西郷隆盛は島津久光に対して無礼な態度をとり、同行も拒否するのですが大久保利通らに説得され、下関へ先行して村田新八とともに島津久光の到着を待ちます。
ところが下関で京都の過激派志士の動向を聞き、これを阻止しようと船で大阪に向かい、3月29日に伏見に到着し決起しようとする藩士らの説得を始めますが、海江田信義(かいえだのぶよし)らから西郷隆盛が過激派志士を煽動し、下関待機命令も破ったという報告に激怒した島津久光によって西郷隆盛、村田新八らは捕縛されて鹿児島へ強制送還されてしまいます。
この寺田屋事件には西郷隆盛をリーダー格としていた精忠組のメンバーが多く参加していたため、西郷隆盛自身が首謀者との見方もあり、この捕縛は仕方のない処置でした。
石碑を建立
有馬新七ら6名の遺体は呉服商・井筒屋伊兵衛によって運び出され、葬儀は寺田屋の女主人・お登勢が取り仕切りましたが、事件直後は上意討ちであったために墓石すら許されていませんでした。
元治元年(1864年)、9名が恩赦によって名誉が回復すると、西郷隆盛は私財を投じて墓碑銘を自身で書き手厚く葬り直し、伏見寺田屋殉難九烈士之墓と直筆の石碑も建立しました。(現存する石碑は昭和になって改修されたものです。)
さいごに
寺田屋事件によって薩摩藩過激尊王派は致命的打撃を受け、この後は藩上層部の意向に逆らうような暴発もなくなりました。
西郷隆盛はこの一件で再び島流しとなりますが、復権した後はご存知のような活躍をして明治維新に貢献しました。
幕末の悲劇の中でも同一藩の藩士同士が斬り合うという凄惨な事件はまれで、この戦闘に参加することとなった者の心情はどれほどであったか推察するのも心苦しいほどです。
寺田屋事件はこのような多くの悲劇を繰り返して、のちに明治維新の大偉業があったことを改めて教えてくれる出来事だったのです。