徳川斉昭とは何者なのでしょうか。徳川性の有名人・著名人は多く、歴史に興味のない人ならば、記憶にない名前かもしれません。ですが、15代将軍の実父、江戸無血開城を決心した一橋慶喜の父であると言えば、思い出す人も多いようです。
徳川斉昭の生涯とは?
徳川斉昭は、常陸水戸藩の第9代藩主です。常陸水戸藩は現代の茨城県中部から北部の位置にありましたが、江戸時代末期、その水戸藩を治めたのが斉昭になります。
第7代藩主徳川治紀の三男として生まれますが、長兄が亡くなり、藩主の座は斉昭へと変わります。幼名虎三郎、藩を継いだ後、斉昭と名乗っています。
水戸藩江戸小石川藩邸で生まれた彼は、長兄、次兄、弟の4人兄弟です。次兄、弟は早々に養子先が決まりますが、なぜか、斉昭は、なかなか決まらず、部屋住みのまま、年齢を重ねます。
父から見た徳川斉昭
父徳川治紀は、小さな頃より聡明であった斉昭を長兄の控えとして、長く手元に置いたとされています。長兄が亡くなった後、斉昭は藩主となり、有栖川宮織仁親王の娘である登美宮吉子を正室に迎えます。
父からの大きな期待を担う斉昭は、小さな頃より学んでいた攘夷論を主張する水戸学を重用することから、藤田東湖、安島帯刀、後に水戸藩天狗党の首領となる武田耕雲斎ら若き者たちを採用し藩政改革を行います。
徳川斉昭の最後
安政の大地震で藤田東湖らを失うと、開国論を唱える井伊直弼と対立。また、14代将軍に徳川慶福を推す井伊直弼、わが子一橋慶喜を推す斉昭が真っ向から対立することとなりますが、安政6年、孝明天皇が水戸藩に下賜した勅書をきっかけに井伊直弼が激怒し、斉昭は蟄居の身となります。
これが、世に言う安政の大獄です。斉昭は、その蟄居が解けないまま、満60歳でこの世を去ることとなります。
徳川斉昭と篤姫の関係について
徳川斉昭と篤姫。この二人には、どのような関係性があるのでしょうか。
この二人の関係性を説明するには、二人にとって必要不可欠な存在である島津斉彬のことから説明しなければなりません。
徳川幕府の中で絶大な権力を保持しようとする斉彬は、13代将軍徳川家定の元に嫁がせるために養女として迎えた篤姫に、次代将軍に一橋慶喜を推すよう言い聞かせます。
しかし徳川斉昭はその女好きな性格から、大奥から大変嫌われていました。篤姫もその例に漏れず、慶喜だけでなく父の斉昭を嫌っていたため、大奥のチームは家定のいとこにあたる徳川慶福(徳川家茂)を14代将軍と推したため、一橋慶喜が15代将軍となるのはその後の出来事でした。
つまり、徳川斉昭と篤姫は本来、政治的に仲間となるはずの関係でしたが、実際は斉昭は篤姫が忌み嫌う存在となってしまったのでした。
徳川斉昭と水戸黄門の関係とは?
第9代水戸藩主であった徳川斉昭は、実は時代劇ドラマでお馴染みの主人公・水戸黄門の子孫です。
水戸黄門こと徳川光圀は、常陸水戸藩の第2代藩主であり、斉昭が小さな頃より学んできた水戸学の基礎をつくった人物になります。
徳川光圀が副将軍と呼ばれた理由
徳川光圀はなぜ、副将軍と呼ばれたのでしょうか。
徳川家には、徳川の血脈が絶えた時のことを考え、御三家なる3つの家が存在します。それが、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家です。将軍に後継ぎがいない場合、尾張家もしくは紀州家から養子を出し、将軍とする決まり事があったそうです。
ですが、この時の御三家は、将軍家、尾張家、紀州家の3家になり、水戸家は認められておらず、その上、水戸家に限り、藩主は江戸在住との決め事があり、藩主はみな江戸に住んでいたのです。
先の副将軍水戸光圀公であると紹介される所以は、ここにあったようです。
水戸黄門とは?
徳川光圀よりも、水戸黄門と言う名称が有名ですが、全国を行脚したという事実はありません。また、その当時、水戸黄門なる名称で呼ばれたこともありません。
時代劇ドラマでは、助さん角さんの二人のお伴を連れていますが、こちらもモデルとなった人物は存在するものの、創作上の人物とされています。
さて、その水戸黄門。江戸幕府を開いた徳川家康の孫になります。父は、徳川家康の十一男である徳川頼房です。
母の身分が低かったために、頼房からは堕胎するよう命令されていたところを、家臣である三木之次が主命に背き、水戸城入城が叶うまで、三木家の子どもとして大切に育られたそうです。
寛永13年、元服した折り、3代将軍家光より諱を与えられ、光圀と名乗ります。第2代藩主となった後は、飲み水に苦労していた農民のために笠原水道を設置、また、240年あまりの年月をかけて完成させる大日本史の編纂を開始しています。
徳川斉昭の子孫
徳川家の中でも類を見ないカリスマ性をもち、烈公と呼ばれた徳川斉昭は、その諡のごとく気性が激しかったとされています。ですが、女性好きな一面をもち、正室のほか、9名もの側室との間に、37名の子どもが誕生しています。
この時代、子どもが育ちにくく、幼いころに夭逝する子どもも少なくありません。そんな時代に無事に37名もの子どもが誕生している藩主は、斉昭以外には見られません。
男児はあちらこちらの藩へ養子に差し出し、女児は近隣諸藩へと嫁がせ、斉昭の血脈は今も日本全国へとつながっています。
息子・徳川慶喜
徳川斉昭の息子として有名なのが徳川慶喜ですね。
江戸時代末期から明治、大正と生き抜いた一橋慶喜は、豚肉を好んで食べる将軍として有名です。
何度もおねだりの書簡が届き、その返答に困った小松帯刀は、一橋慶喜に対し、わがままで自己中心的な人物である、人間性に大いに問題ありと皮肉ったとされています。
ちなみに、豚一殿と呼ばれたわけは、豚肉好きな一橋様を略したものになります。