山縣有朋は幕末から明治にかけての史実において頻繁に登場しているのですが、現代人に名前をあまり知られていない存在です。
国軍の父とも呼ばれた、明治大正にかけての偉大な政治家であった山縣有朋とはどのような人物だったのでしょう?生い立ち、趣味、交友関係から家系図を紐解き妻、子孫まで詳しく説明していこうと思います。
山縣有朋の生い立ち
山縣有朋は、1838年に長州藩領内(現在の山口県萩市)で、蔵元付き仲間(足軽以下の卒族と呼ばれる武士身分を有さない下級家臣)山縣有稔(ありとし)の長男として生れました。下級家臣とは言え、有朋の父・有稔は大変真面目な人物で、国学も学び、和歌、謡曲、挿花も嗜む風流人でした。
その父の影響からか、有朋は和歌を早くから学び、生涯の中でも数多くの優れた和歌を遺しているほどです。 また武術にも熱心に取りくみ宝蔵院流槍術・明倫館師範代の岡部半蔵について槍も習っており、毎日規則正しい生活の有朋は朝食後に必ず槍の稽古をしていました。
知略に優れていたのは子供の頃からだったのでしょうか。幼少期の遊びで「石合戦」をしては、いつも片側の総大将をしていたと晩年有朋本人が語っています。
松下村塾へ入塾し、人生の転機となる
1858年7月、長州藩が京の政情探索として派遣した6人のうちの1人が山縣有朋で、この6人の中には、後に初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文もいました。
この在京中に、のちに禁門の変で壮烈な最期を遂げることになった久坂玄瑞に出会い、感銘を受けます。その後、久坂玄瑞に推薦してもらう形で帰郷し、松下村塾に入塾することとなりました。
松下村塾は有朋にとっての土台?
松下村塾は吉田松陰の叔父が開塾し、松陰が引き継いだ有名な私塾です。吉田松陰は29歳の若さで刑死することとなったため、短い期間の指導ではありましたが、多くの塾生がのちの幕末から明治にかけて日本を主導し活躍することとなります。
山縣有朋が入塾してまもなく吉田松陰は刑死したため、有朋が松陰から受けた教育は短いものとなりましたが、吉田松陰死後も塾生たちと尊皇攘夷運動に参加し、藩から尊皇攘夷に尽くしているとして、入江九一・伊藤博文等と共に士雇にあげられました。この士雇(さむらいやとい)は長州藩の士分の扱いの括りです。
下級家臣であった彼らにすれば、士分の取りたては世にでるベースになったと考えられています。まさに、松下村塾の入塾は山形有朋の人生で外すことのできないものです。
吉田松陰からの直接の指導は短いものでしたが、山形有朋は生涯「松陰先生の門下生」と言い続けました。有朋は士分に取りたてられた以降も活躍が目覚ましく、奇兵隊に入り奇兵隊軍監となって頭角をあらわし、戊辰戦争まで隊を率いて活躍します。
西郷隆盛と山縣有朋の関係
山縣有朋は、倒幕の過程で西郷隆盛と親密な関係を築いていきました。山縣有朋は維新後、陸軍中将と なり軍の実権を握ってきますが、その過程で西郷隆盛の協力を得て全国徴兵制を取り入れました。
薩摩との軋轢があった際も、「山城屋和助事件」の時も、終始、西郷隆盛は有朋を擁護し、かばい続けたくらいなので、その信頼関係と親密度合いは確かだったと言えます。
西南戦争における山縣有朋について
しかし、1877年に勃発した西南戦争では、山縣有朋は官軍として総指揮をとり、大先輩で恩人でもある西郷隆盛と対峙することになります。
結局、城山に立て籠る西郷隆盛に自決を進める手紙を送る事になり、その後、西郷隆盛は自決し西南戦争が終わります。
明治政府における山縣有朋について
維新後、明治政府で軍政家として功績を残し、国軍の父と言われました。生涯をかけて新政府に人力、貢献した人生だったようですね。
西南戦争では総指揮をとり、日清戦争では司令官として現地へ赴き直接指揮をとりましたが、その後、二度も内閣総理大臣を勤めました。
徴兵制、新国軍の創生、地方自治の施行など新政府に大きく貢献し、政界・官界・天皇家に対してもあらゆる影響力を及ぼし、「元老中の元老」「日本軍閥の祖」として、この世を去る寸前まで精力的に活動していました。
また、日本人でメリット勲章を与えられている3人の中の1人でもあります。メリット勲章はイギリスの勲章ですが、現存する勲章の中で最も名誉なものであるとも言われています。
晩年の趣味は庭園造り
風流な父親譲りの才能で和歌、漢詩、仕舞、書を好み、茶人としても知られていて、最大の趣味は造園づくりでありました。その趣味は天才の域であり数多くの庭園を遺しています。
そして1922年、有朋は85歳でその生涯を閉じました。
山縣有朋の子孫や家系図
有朋の妻や子孫が気になる所ですが、家系図を紐解きながらその系譜を探ってみましょう。また、子孫から有名な人物がいるのかも調べてみました。
有朋は湯玉の庄屋の娘山口友子と結婚し、友子との間に7人の子を授かるも、女児1人を除いて亡くなっています。
その後、友子が亡くなり、妾だった元日本橋芸妓・貞子を夫人としようとするも本人が辞退したため未入籍。貞子とは子供がおらず、有朋には跡継ぎがいませんでした。そのため、有朋は姉の壽子と勝津兼亮の次男・伊三郎を養子として迎えています。
伊三郎の子・有道は宮中に仕え侍従・式部官を務め、有道の子・山縣有信は栃木県矢板市長を務めました。そして、有朋の娘・松子と船越光之丞の三男である有光を伊三郎の養子に迎え入れ、山縣家分家として男爵を授爵させています。
有光は軍人となり第六航空軍・第21飛行団長で終戦を迎えます。最終階級は陸軍大佐でした。有光は1982年まで生きましたが子供がいなかったため、山縣姓を名乗る有朋の直接の子孫は現在残っていません。