一橋慶喜と第14代将軍の座を巡って争い、無事にその座を射止めた徳川家茂(徳川慶福)。心優しい人物で、勝海舟からも文武両道の将軍として期待されていましたが、若くして亡くなってしまいます。
そんな家茂の生涯に関して、死因や篤姫との関係、嫁の和宮についてや、彼女の墓から出てきた写真に関する内容を解説していきます。
家茂の生い立ち
1846年5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として、江戸の紀州藩邸で家茂は生まれました。
自身が将軍になるまでは、第12代将軍・徳川家慶の名から1字を賜り、慶福(よしとみ)と名乗っています。
家茂は波江という美しく慈愛に溢れた養育係に育てられ、そのおかげか家茂も非常に優しい少年として育ちました。また、歌を読む才能や儒教の経典に長けており、勝海舟からは「文武両道の人物」として高い評価を受けています。
第14代将軍の座を争う将軍嫡子問題
当時の第13代将軍・徳川家定は非常に病弱だったため、正室として篤姫を迎えていましたが、世継ぎが生まれない可能性も考えられました。
そこで、もし家定に後継が出来なかった場合、次の第14代将軍を誰にするかという将軍嫡子問題が起こります。
慶喜を推す一橋派と慶福(家茂)を推す南紀派
当時、ペリーの黒船来航により日本国内の政情は大きく揺れており、これに対応できる有能な人物として、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らの一橋派は、斉昭の息子である一橋慶喜を次の将軍に推していました。大老の阿部正弘もこれに同調しています。
しかし、一方で家定に血筋が近い紀伊藩主・徳川慶福の息子である徳川慶福(家茂)を次の将軍に推す南紀派という勢力もいました。こちらの南紀派は、これまでの幕府と同じように、血統による将軍相続の運営をするべきだと考える人々でした。
大老・井伊直弼が慶福(家茂)を将軍に
この将軍嫡子問題については、新しく大老(幕府のNo.2)に就いた井伊直弼によってあっさりと決着がつけられます。直弼が次の第14代将軍を慶福に決めたのです。
これにはもちろん反発した一橋派でしたが、直弼は安政の大獄による大弾圧で、強権的に自らの決定に従わせたのでした。
わずか13歳のときに将軍職に就いた慶福でしたが、それをきっかけに家茂という名を名乗るようになります。
和宮を正室に。孝明天皇へ攘夷を約束する
1862年、幕府・朝廷・有力藩が三者一体となって欧米列強に対抗するという公武合体の一環として、孝明天皇の妹である和宮を家茂は正室に迎えます。
この頃、薩摩藩の実権を握っていた島津久光が慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求し、力が弱まっていた幕府はそれを認めるしかありませんでした。これ以降、家茂は慶喜の影に隠れがちになっていきます。
230年ぶりの将軍上洛。勝海舟に海軍を認める
1863年、京都で公武合体政策の推進を図るため、家茂は上洛(京都に入ること)します。将軍が上洛するのは実に230年ぶりの出来事でした。
しかし、ここで家茂は体調を崩してしまい、孝明天皇には攘夷(外国を討ち払うこと)をすることを約束だけして、6月に江戸へ戻ります。
その帰途に、幕臣・勝海舟は家茂へ海軍の必要性を説き、他の幕臣の反対を退けて、勝海舟の意見を素直に聞き入れています。この即時決断には勝海舟も驚き、家茂を名君として褒め称えました。
再上洛するも公武合体ならず
翌年1864年、家茂は再度上洛します。しかし、将軍後見職であった慶喜の動きにより公武合体がうまくいかず、家茂は江戸へ帰ることになりました。
第二次長州征伐の間に病死
京都で勢力を広げていた尊王攘夷派である長州藩が、禁門の変により御所を襲撃します。これにより、第一次長州征討が始まり、長州藩の家老を切腹させることで事態は一度収拾しました。
しかし、長州藩に対する処罰が軽いということで、幕府は徹底的に長州藩を叩くため、第二次長州征伐を実行します。
薩摩藩の西郷隆盛は、外国ではなく国内にしか目を向けない幕府に失望し、幕府からの出兵要請を断っています。この頃から、西郷は倒幕に向けた動きをするようになりました。
そしてこの第二次長州征伐の間、家茂は大阪城にて病死してしまいました。享年21歳という、若すぎる死でした。
死因は虫歯?
家茂の死因ですが、なんと虫歯ではないかと言われています。
家茂は羊羹やカステラなどの甘いお菓子が大好物であり、後に行われた墓所の調査では、31本中30本の歯が虫歯に侵されていたことが分かりました。
虫歯で亡くなるというのは現代では想像ができないかもしれませんが、当時は特に治療法もなく、その激痛などにより体調を崩すことは珍しくなかったのです。
脚気やストレスも要因?
また、家茂が亡くなった当時は、長州征討などによりかなりの激務だったことが想像でき、多大なストレスが死因として挙げれらます。
それだけでなく、家茂は脚気(かっけ)という病気にもかかっていたと疑われています。脚気とは、ビタミン欠乏症の一つで、心不全と末梢神経障害をきたし、最悪の場合は死に至る病気です。
家茂はこういった様々な要因が複合的に働き、亡くなってしまったのだと考えられます。
家茂と篤姫の関係
家茂の生涯についてひと段落終えたところで、大奥に君臨していた篤姫と家茂の関係について簡単に紹介しようと思います。
篤姫は薩摩藩主・島津斉彬の養子で、第13代将軍・徳川家定の正室として嫁ぎました。篤姫は斉彬から、旦那である家定に取り入って、一橋慶喜を次の将軍にするよう命を受けていました。
しかし、篤姫は慶喜の将軍としての資質を疑っていたことと、慶喜の父である徳川斉昭を大変嫌っていたため、最終的には家茂を次の将軍に推しました。
こうした経緯を考えると、家茂にとって篤姫は自身を将軍にしてくれた恩人と言えるのかもしれません。
篤姫は家茂を可愛がっていた?
先にも書きましたが、家茂は元来優しい性格の持ち主であり、そのため篤姫は家茂をかなり可愛がっていたようです。
実際、家茂の身を案じて書いた手紙も残っています。家茂が上洛した際、家茂の側近たちが江戸へ帰城したにもかかわらず、家茂は京にとどまったままだったため、自身の身を守るものが少なくなってしまった家茂にひどく心痛して篤姫が書いた手紙で、何人かの家臣たちを再度上洛させたというエピソードが残っています。
子供がいなかった篤姫にとって、家茂は愛すべき息子のような存在だったのかもしれません。
家茂と和宮の仲は?家茂の写真を墓に持っていくほどだった
家茂は孝明天皇の妹である和宮を正室に迎えていますが、和宮は他に婚約者がいたにも関わらず、家茂と政略結婚させられたため、最初はかなり嫌々だったと言います。
しかし、実際に和宮を待っていたのは、どことなく和宮と同じ公家風を思わせる心やさしき家茂で、彼も和宮を常に気遣い優しく接したため、そんな家茂に和宮は本当に愛情を抱くようになりました。
和宮に西陣織をプレゼント
家茂が第二次長州征伐へ向かう際、和宮は家茂から何かほしいものはないかと聞かれ、西陣織がほしいと伝えます。
残念ながら家茂は遠征の間に亡くなってしまうのですが、家茂の死後、和宮の元に約束通り西陣織が届けられます。激務の中で悠々と買い物をする時間など無かったはずでしたが、そんな時でも和宮との約束を忘れずに西陣織を届けた家茂は、本当に心優しい人物だったのでしょう。
西陣織が届いた際、和宮は以下の句を読みます。
意味は、「せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう」というもので、和宮の家茂を想う気持ちが伝わってきます。
和宮は棺に家茂の写真を持っていった?
後年、和宮の墓所を調査する機会があり、その際、和宮の棺の中に家茂と思われる男性が映ったガラス片が見つかりました。いわゆる、湿板写真と呼ばれるものです。
詳細に調査する前に、その人物像がガラス片から消えてなくなってしまったようですが、様々な特徴から、映っていた人物は間違いなく家茂だったと言われています。
自分が亡くなった後も夫の家茂と共にいたいと思ったのでしょうか。和宮の遺言により、彼女は家茂の墓で一緒に眠ることになりました。
さいごに
家茂は若くして亡くなってしまったため、歴史的に有名なわけではありませんが、その浮かび上がってくる人物像は、非常に魅力的な好青年を思わせるものとなっています。
激動の幕末において、このような心穏やかな人物というのも珍しいかもしれませんね。