幕末から明治にかけ91歳という長寿を全うした近衛忠煕(このえただひろ)は、どのような生涯を送ったのでしょうか。
近衛忠煕とは、分かりやすく言えば、幕末に活躍した公卿になります。公卿とは、国政を行う最高権力者であり、太政大臣、右大臣、左大臣等の役職を担う高官になります。
かの織田信長が政権を把握した折り、近衛忠煕と同様の地位を手に入れたのは彼とその長男である織田信忠のみでした。このことを考えれば、近衛忠煕がその時代の国内政治において、最高権力をもつ幹部だったことが分かるのではないでしょうか。
近衛忠煕の生涯について
近衛忠煕とは、何を行った人物だったのでしょうか。彼の生涯は、文化13年、元服した後、左近衛権少将に任官されることから始まります。
権中納言、権大納言、左近衛大将、右大臣、左大臣等を歴任しますが、14代将軍を巡る跡継ぎ問題で、一橋慶喜を推す側に協力した彼は安政の大獄で失脚し、落飾謹慎の身となります。
安政の大獄から3年あまり経った文久2年、関白職に復帰しますが、わずか1年でその職を離れ、京都市内の邸宅で孫を引取り養育する日々を過ごします。
その彼が骨身惜しまず育てた孫は、後の貴族院議長、学習院院長等を歴任した近衛篤麿になります。
近衛忠煕と篤姫
公武合体を願う近衛忠煕が幕末の世に登場するのは、13代将軍徳川家定に嫁ぐ篤姫を養女に迎えた場面からになります。篤姫の養父となった島津斉彬の意志を受け、篤姫を養女に迎え、藤原敬子と名を改めさせます。
その篤姫と近衛忠煕には、どのような関係があるのでしょうか。徳川家定に嫁ぐ際、島津斉彬は徳川宗家に嫁ぐだけの価値を付けるため、公家の名門である近衛忠煕に相談します。近衛忠煕は篤姫を養女として迎え、藤原敬子として家定に嫁がせることに協力しました。
近衛忠煕は篤姫にとって自身が将軍家に嫁ぐために必須となる働きをしてくれた人物のようです。
なぜ、近衛忠煕は薩摩の島津斉彬を後援したのでしょうか。それは、忠煕の正室である郁姫こと島津興子が、斉彬の祖父島津斉宣の娘であったからです。隠居していた斉宣に代わり、斉彬の父島津斉興はその娘を養女とし、忠煕に嫁がせていたためになります。
ちなみに、その郁姫の婚儀の際、付き添うよう命じられたのが、西郷どんで南野陽子さん演じる幾島になります。
月照と近衛忠煕の出会い
月照と近衛忠煕の初めての出会いは、清水寺。孝明天皇からの依頼だったかは謎ですが、忠煕が清水寺に参詣した際、月照と出会い、それから交流が始まったとされています。
月照と西郷隆盛の関係
西郷隆盛を語る際、忘れてはいけない人物の一人が月照になります。月照と西郷隆盛は、どのような関係だったのでしょうか。
まず月照の経歴についてですが、町医者の長男として誕生し、叔父を頼って京都の清水寺の北側にある成就院の住職になります。
その頃、一橋慶喜を将軍にと画策していた島津斉彬は親戚筋となる近衛忠煕を頼り、公家、朝廷との強いパイプをもつことに集中しておりました。その時、斉彬の使いとして遣わされたのが西郷隆盛。月照とは、この頃に知り合ったのではないかと考えられています。
月照は尊王攘夷論に傾倒しており、一橋慶喜推進派の一人として活躍したために、井伊直弼から危険人物の扱いを受けることとなります。
幕府が行う安政の大獄での取り締まりが徐々に厳しくなり、西郷隆盛とともに薩摩へ逃げ込みますが、月照は薩摩入りが叶わず。死を覚悟した月照は、西郷隆盛と入水自殺を図り、隆盛のみが助かります。
月照この時、46歳。彼が短い一生を終えた日は、安政5年11月16日。ちなみに、墓は清水寺にあり、命日である11月16日には、彼をしのぶ落葉忌が行われています。
近衛忠煕の側室
温厚な人柄で知られる近衛忠煕にも、この時代特有の側室をもち、彼女に子どもを生ませています。
側室の名は、光蘭。光蘭の生んだ娘は、名を信君尹子と改め、第十五国立銀行取締役を勤めた伯爵津軽承昭の継室となっています。この娘のほかにも子どもがおりますので、側室は光蘭だけではなかったようです。
近衛忠煕の家系図や子孫
家系図
公家の名門近衛家の家系図は、平清盛の時代から続いています。公家と言えば、幕末に活躍した岩倉具視が思いだされますが、その岩倉家よりはるか上の格をもつ家柄になります。
近衛忠煕の10代先の先祖である近衛前久の娘は後陽成天皇の子を産んでおり、その子が近衛信尋となり、近衛家を継いでいます。
子孫
子孫には、伊勢神宮の祭主となった4男・近衛忠房、明治天皇皇后の異母兄に嫁いだ娘の総子、春日大社宮司を勤めた8男・水谷川忠起、東本願寺法主となった猶子の大谷光勝らがいます。
近衛忠煕の和歌
近衛忠煕が書き記した書は、和歌短冊、掛け軸として、今も残っています。近衛忠煕詠んだ和歌は、静岡県立美術館にて、和歌懐紙あはれしる、ほとゝきすの2点が展示されており、直接見ることができます。和歌を詠む際に用いた名は、翠山になります。