織田信秀とは?斎藤道三との関係性や死因、葬儀や墓について解説!

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織田信秀は織田信長の父として知られる人物です。

長きに渡って、美濃国の斎藤氏や三河国の松平氏などを争いを繰り広げました。

織田信秀の生い立ちや斎藤道三との関係性、死因や葬儀でのエピソードなどを解説します。

織田信秀の生い立ち

織田信秀は永正8年(1511年)、現在の愛知県愛西市・稲沢市に跨る勝幡城主であった織田信定の長男として誕生しました。

父・織田信定は尾張国の守護代織田氏の1人で、織田大和守家に仕えていました。

織田大和守家に仕える因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家は清洲三奉行と呼ばれ、大和守家の執務を輔佐していました。

織田信秀は清洲三奉行のうちの弾正忠家の1人であったとされています。

 

織田家の当主となる

大永6年4月(1526年)から大永7年(1527年)6月の間に、織田信秀は父・織田信定から家督を譲られ織田家の当主となります。

この時、織田信秀は17歳でした。

当主となって、まもなくした天文元年(1532年)、織田大和守家の後継者である織田達勝と清州三奉行の1人である織田藤左衛門と争いを起こしますが、講和に至ります。

その後、織田信秀は自らの威勢を周囲に示すため天文2年(1533年)7月、蹴鞠の宗家の1人である飛鳥井雅綱を京都から招き、勝幡城で蹴鞠会を開きました。

多くの見物客が集まったとされ、7月27日には清須城でも蹴鞠会を開催しました。

 

織田信長が誕生

天文7年(1538年)ころになると、今川氏豊から那古野城を奪い愛知郡に勢力を拡大させます。

いつ結婚したのかは分かっていませんが、天文3年(1534年)織田信秀と継室・土田御前との間に三男・織田信長が誕生しました。

 

森山崩れ

その後も勢力を拡大させた織田信秀は天文8年(1539年)になると古渡城を築き、熱田を支配します。

享禄2年(1529年)徳川家康の祖父にあたる三河国の松平清康が尾張へと侵攻してきました。

松平清康は次々と織田信秀の支配下である品野城や岩崎城を攻略し、天文4年(1535年)になると今川氏とともにさらに侵攻を強めます。

しかし天文4年(1535年)12月5日、松平清康は陣中において家臣の阿部正豊の裏切りにあい命を落とすのでした。

これは尾張国春日井郡森山の陣中でおきたことから森山崩れと呼ばれています。

第一次小豆坂の戦い

織田信秀はこの森山崩れの隙をみて天文9年(1540年)松平氏は支配していた三河国の安祥城を攻略し、ここに長男の織田信広を置きました。

松平清康亡き後、松平氏は今川氏から庇護を受けていたとされ、天文11年(1542年)8月、今川氏・松平氏は尾張国へと侵攻を始めました。

この戦いは岡崎城東南の小豆坂で行われたことから小豆坂の戦いと呼ばれています。

小豆坂の戦いは結果、織田信秀の勝利に終わりました。

 

居城を移転させる

明確な時期は分かっていませんが、元服を迎える天文15年(1546年)までの間に、三男の織田信長に那古野城を譲り渡したとされています。

天文17年(1548年)になるとさらに末森城を築き、末森城を居城としました。

戦国大名は拠点城を動かさないことが多いですが、織田信秀は勝幡城、那古野城、古渡城、末盛城と居城を移転させることが多くありました。

その結果、勢力の拡大に繋がったと考えられています。

 

朝廷に対し

勢力を拡大させ、経済基盤となる地域を増やした織田信秀は経済的にも豊かになったため、朝廷に献金するようになります。

また天文9年(1540年)には、伊勢神宮遷宮のため金銭と木材を献上、天文12年(1543年)には朝廷に対し内裏修繕費として金銭を献上するなど、朝廷に対し顔を売るようになりました。

一方で室町幕府の第13代将軍・足利義輝にも拝謁し、信頼を得たのです。

 

加納口の戦い

天文11年(1542年)、美濃国のマムシと呼ばれていた斎藤道三が対立していた美濃国の守護・土岐頼芸と子の頼次を尾張国に追放します。

織田信秀は追放された土岐頼芸を支援し、越前国の朝倉孝景とともに斎藤道三に向けて兵を出しました。

天文13年(1544年)斎藤道三の居城である稲葉山城を落城させることに成功します。その後、大垣城を斎藤道三から奪いました。

この戦いは加納口の戦いと呼ばれていますが、斎藤道三の反撃を受け敗走となるのでした。

 

織田大和守家との戦い

天文17年(1548年)織田信秀に対し、犬山城の城主で、弟・織田信康の子供である織田信清が楽田城主・織田寛貞とともに謀反を起こします。

しかし織田信秀はこれを鎮圧し、2人を従属させたのでした。

同年、斎藤道三が大垣城を取り返すため大垣城へと攻撃を仕掛けます。

織田信秀は大垣城の防衛戦に出陣しますが、織田信秀の留守を狙い、対立していた清須奉行の織田大和守家・織田達勝の後継者である織田信友が古渡城を攻撃しました。

織田信秀は大垣城の防衛戦から戻った後、織田大和守家とも争いを起こしますが、翌年には和解となりました。

徳川家康が人質に

天文16年(1547年)の9月、松平広忠の岡崎城を攻撃し松平広忠を降伏させます。

松平氏は今川氏との関係性をより緊密にするため松平広忠の嫡男である竹千代(後の徳川家康)を織田氏と敵対する駿府の今川氏の人質として送りました。

しかし竹千代(後の徳川家康)の義母の父・戸田康光に裏切られ、敵対していた織田氏の人質となります。

織田信秀は人質となった竹千代(後の徳川家康)を利用し、松平広忠に対し今川氏と離反し織田家の傘下に入るよう勧めますが、松平広忠は織田信秀の説得には応じず、今川氏を頼りに織田家に対し徹底抗戦を持ち続けるのでした。

 

斎藤氏と和睦

竹千代(後の徳川家康)が織田氏の人質となった同じころ、織田信秀は対立していた美濃国の斎藤氏を和睦します。

この時の和睦条件として斎藤道三の娘・濃姫が三男・織田信長の妻となったのでした。

 

第2次小豆坂の戦い

斉藤氏との対立が落ち着きを見せると、織田信秀は松平氏の岡崎城の攻略に力を注ぐようになります。

そして天文17年(1548年)3月、織田信秀は岡崎城攻略のため出陣するのでした。

駿河国の大名・今川義元は松平氏救援のため多くの兵と今川家の家臣である太原雪斎、朝比奈泰能を派遣します。

そして3月19日、小豆坂において織田信秀と松平氏・今川氏連合軍の間で合戦が始まったのでした。

この戦いは第2次小豆坂の戦いと呼ばれ、織田信秀の敗北に終わります。

第2次小豆坂の戦いに敗れたため、人質となっていた竹千代(後の徳川家康)を解放することとなり、織田信秀は西三河での勢力を失うこととなりました。

 

織田信秀の最期

松平氏との間で戦が行われていたころから織田信秀は病に苦しんでいたとされ、天文21年(1552年)3月3日、42歳で末森城で亡くなりました。

現在の愛知県名古屋市にある萬松寺で葬儀が行われ、この葬儀には約300人の僧侶が集まったとされています。

 

織田信長の奇行

少年時代から派手な服装を好み、奇行に走る織田信長は周囲から「大うつけ」と呼ばれていたと『信長公記』に記されています。

その奇行の1つとして、父である織田信秀の葬儀の際、織田信長は位牌に向かって抹香を投げたというエピソードが残されています。

 

織田信秀の墓

織田信秀の墓は萬松寺、同じく愛知県名古屋市にある桃巌寺にあります。

 

まとめ

織田信長の父・織田信秀の生い立ちや斎藤道三との関係性について解説いたしました。

織田信秀には正室・土田御前の他に、3人の側室がおり、20人以上子供がいたとされています。

そんな織田信長の父・織田信秀は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しています。