小早川秀秋とは、安土桃山時代に活躍した大名です。
豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたりますが、天下を分けた関ヶ原の戦いでは西軍を裏切り、徳川軍率いる東軍に味方し豊臣家を衰退に追い込みました。
そんな小早川秀秋の生涯、関ヶ原の戦いにおいての裏切りや死因、また家紋や現代に続く子孫などを解説していきます。
小早川秀秋の生い立ち
木下秀俊(のちの小早川秀秋)は天正10年(1582)、近江国の長浜で木下家定と杉原家次の娘の間に五男として誕生しました。
父・木下家定は、豊臣秀吉の正室・高台院の兄であったため、木下秀俊は正室・高台院の甥にあたります。
天正13年(1585年)に義理の叔父である豊臣秀吉の養子となり高台院に育てられてきました。
元服した際は、木下秀俊と名乗り、その後は豊臣秀俊と名乗ります。
その後、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられ、丹波中納言と呼ばれるまで昇進し、関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者と諸大名から評価されました。
小早川家の養子となる
文禄2年(1593)に豊臣秀吉に世継ぎとなる豊臣秀頼が誕生したため豊臣家の家臣・黒田孝高が小早川隆景に、木下秀俊を毛利輝元の養子とすることが持ちかけられます。
しかし、小早川隆景は弟・穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の養子として送り込み、木下秀俊は自身の小早川家の養子として木下秀俊を小早川家に迎え入れました。
こうして木下秀俊は文禄3年(1594)小早川家の養子となり、小早川秀俊と名乗ることとなります。
慶長の役
慶長2年(1597)2月21日に豊臣秀吉の命で朝鮮半島への渡海することとなります。
同年6月12日には小早川隆景が没し、以降、朝鮮半島在中中に小早川秀俊から小早川秀秋と改名しました。
朝鮮在中中には慶長2年(1597)から翌年の1月4日までに行われた蔚山城の戦いに参加したとされていますが、裏付ける明確な史料は確認されていません。
慶長3年(1598)1月29日に、小早川秀秋は日本に帰国しました。
朝鮮から帰国後
朝鮮から日本に帰国したこと小早川秀秋は蔚山城の戦いでの軽率な行動が原因で自身の領地である越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下されます。
しかし、豊臣秀吉が慶長3年(1598)8月に死去すると、筑前、筑後に復領することとなりました。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家、石田三成らによって結成された西軍と徳川家康を中心に構成された東軍が、関ヶ原だけではなく各地で合戦を繰り広げました。
小早川秀秋は当初、西軍として伏見城での戦いに参加し、本戦において関ヶ原の南西にある松尾山に西軍の伊藤盛正を追い出し、陣を敷きます。
関ヶ原の合戦は午前8時頃に開始したとされ、午前中の戦況は西軍が有利に動いていました。
その際、小早川秀秋は合戦をただ傍観していたとされ、そこに東軍の徳川家康は度々、使者を送り込みました。それでもたた戦を傍観し続ける小早川秀秋に徳川家康は苛立ち小早川秀秋の軍に鉄砲を撃ち掛けたとされています。
このような、徳川家康の威嚇射撃があったとされながらも、小早川秀秋は徳川家康の催促によって西軍を裏切る形で東軍に寝返ることとなりました。
小早川秀秋の裏切り
徳川家康に催促され西軍を裏切った小早川秀秋は、西軍の大谷吉継の陣へと攻め入ります。
小早川秀秋に攻め入られた大谷軍は寡兵ながらも小早川軍を食い止めますが、小早川秀秋の裏切り行為が連鎖的に生じ大谷軍から脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らも東軍に寝返ったため、大谷吉継は討死となりました。
東軍が勝利
この関ヶ原の戦いでは東軍が勝利をおさめました。
豊臣家の養子となり出世したにも関わらず西軍に対し裏切り行為を行った小早川秀秋の当時の世評は芳しいものではなかったとされます。
岡山藩主となる
その後、小早川秀秋は関ヶ原の戦いでの論功行賞として旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増、移封されました。
岡山城に移った小早川秀秋は寺社寄進領の安堵といった施策や側近勢力の拡充を行います。
小早川秀秋の最期
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)10月18日に小早川秀秋は21歳という若さでこの世を去ります。
この早すぎる死去の死因は鷹狩の最中に体調を崩したためと残されますが、一方、関ヶ原の戦いで西軍を裏切り大谷吉継を討伐したため、大谷吉継の怨念ではないかといった逸話も残されました。
しかし最も有力な死因としてアルコール依存症による内臓疾患があげられています。
小早川秀秋の家紋
小早川秀秋が使用していた家紋は、丸に違い鎌を使用していたとされます。
この家紋に用いられている鎌は農業用の器具として使用するためのもので、五穀豊穣への願いが込められました。
丸に違い鎌の他にも三つ巴の家紋を使用していたということも残されています。
三つ巴には蛇が渦を巻く様子が表され、蛇は神聖なものとして認識されていました。
小早川秀秋の子孫
小早川秀秋は正室に毛利輝元の養女であり、実父・宍戸元秀の娘である長寿院を迎えていますが、21歳という若さで急死したため、世継ぎに恵まれず小早川家は断絶してしまいました。
しかし、毛利本家が小早川家を明治維新後に再興したため現在でも小早川家は存続されています。
小早川秀秋の子孫とされる小早川隆治さんは、暗記重視の歴史教育を見直すため科書の収録用語を現在の半分程度に減らす取り組みが行われた際、関ヶ原の戦いで裏切り行為を行った先祖にあたる小早川秀秋について「ご先祖は教科書に載らないままでいい」と語られました。
最後に
豊臣家に養子となり出世した小早川秀秋でしたが、関ヶ原の戦いにおいては日本の歴史に残る裏切り行為を行い、以降裏切り者というレッテルが張り続けられました。
関ヶ原の戦いで、小早川秀秋が裏切り行為を行わなかったら、日本の歴史は少し違ったものになっていたかもしれませんね。