織田信忠とは?松姫や息子・三法師、生きていたらという仮説について!

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本能寺の変で有名な織田信長ですが、その信長が特別扱いしていたのが長男の織田信忠でした。

信長から生前に家督を譲り受けるほど有能で期待されていた信忠でしたが、26歳という若さで父・信長とともにこの世を去ることとなります。

ではもし信忠が生きていたら、戦乱の世はどのようになっていたのでしょうか?

今回は信忠の妻・松姫や息子・三法師との関係とともに、「もし信忠が生きていたら」そんな仮説に迫りたいと思います。

織田信忠の生い立ち

織田信忠は弘治3年(1557年)、織田信長の長男として誕生し、幼いころは奇妙な顔をしていたことから「奇妙丸」と名づけられていました。

また父親である信長が、美濃斎藤氏を倒した永禄10年には武田信玄の五女・松姫との婚約が成立していたことが分かっています。

永禄12年(1568年)、信長が上洛し、将軍・足利義満が生まれましたが、そのころには坂井政尚や柴田勝家の補佐を受け、信忠が政務を取り仕切っており、その能力や期待度の高さがうかがえます。この時信忠はまだ12歳という若さです。

このようにかなり早い段階から信長は、信忠に家督を譲ることを想定していたと考えることができます。

 

信忠の初陣

信忠は元亀3年(1572年)、浅井長政の小谷城攻めで初陣を飾りました。

このころいわゆる信長包囲網が敷かれ、織田・武田の同盟も破棄、同時に松姫との婚約も解消されています。

信忠は自身が17歳の時に、元服しました。近年発見された資料によると、このときには既に尾張国の一部の支配権を与えられていたようです。

天正2年(1574年)、長島一向一揆の撲滅のため、信忠は出陣しましたが、同じく出陣していた信長本隊や柴田勝家、丹羽長秀とは異なる隊に所属していたことから、この時すでに信忠単独で軍事行動を行っていたことが分かります

家督を受け継ぐ

また天正3年(1575年)には長篠の戦いに参加し、長島一向一揆の戦いの時と同じくこの軍とは離れ、単独で武田軍と戦っています。

その直後には総大将として岩村城攻めに加わり、岩村城の奪還に成功するなど、戦において数多くの功績を残しました。

その後信忠は正室・濃姫の養子とされると、信長より家督を譲り受け、岐阜城と尾張、東美濃の支配権もそのまま受け継ぎました。

信忠は家督を継承した後も、戦において活躍し、天正5年の信貴山城の戦いでは総大将として信貴山城を没落させています。

天正8年(1580年)に尾張南部を支配していた佐久間信盛と西美濃三人衆の一人、安藤守就が追放されると、信忠は尾張全域と東美濃に加えて西美濃も支配するようになり、さらにその力を増すこととなります。

 

武田軍の滅亡

天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、次々と武田軍の城を攻略すると信忠軍の快進撃は続き、ついに信忠は武田勝頼を滅ぼしました。

本来この甲州征伐に関しては、信忠軍の後続部隊として信長軍が続く予定でしたが、結果として信忠単独で武田軍を滅ぼしたことに信長は大変驚いたと言われています。

こうして信長の後継者として天下統一の可能性もあった信忠ですが、その可能性はあまりにあっけなく途絶えてしまいました。

信忠の最期

信長が本能寺に入ると、信忠と深夜まで宴を開きました。

翌朝、本能寺の変が勃発すると、妙覚寺にいた信忠は、すぐに本能寺に駆けつけようとしました。

しかし村井貞勝から、「本能寺は既に敗れたため、二条御所に立てこもるのが良い」と進言されると、その通りに側近とともに二条御所に移動しました。

しばらくすると大方の予想通り、明智光秀が攻めてきて、たちまち御所も包囲されることとなります。

信忠は必死に抗戦しましたが、信忠軍が数百の兵力だったのに対し、明智軍は1万以上と結果は明白でした。

そして御所に明智軍の兵たちが侵入し、建物に火が放たれると、信忠は父である信忠と同じく自害し、その生涯を終えました。

 

松姫の悲劇

信忠が11歳、松姫が7歳のときに二人は婚約しています。

この頃の織田家と武田家は互いに同盟を結び、良好な関係を築いていました。

二人の婚約から3年後、武田軍が徳川家を攻めると、徳川家とも同盟を結んでいた織田軍は徳川家の味方するために、援軍を送り込みます。

こうして信忠と松姫の婚約は解消されることとなりますが、その後も松姫は信忠を想い続け、何度かあった縁談を全て断ったとされています。

しかし婚約解消から10年後、勢力が弱まった武田軍を織田家が攻めることとなり、婚約を結んでいた両家が、最終的に敵同士へと移り変わってしまったのです。

 

息子・三法師

信忠の息子・三法師は3歳の時、本能寺の変で父・信忠を失うと、前田家に保護され清州城に移り住みました。

信長の後を継いで織田家当主となった三法師(のちの秀信)ですが、豊臣秀吉が天下を取ると、秀吉に意見することも出来ず、その力は弱まります。

秀吉が亡くなると、徳川家康と石田光成が関ヶ原の戦いで争うことになります。この時秀信は石田側へつきますが、前哨戦で敗れ、秀信は降伏しました。

本来であれば死罪となる秀信ですが、なんとか許しを得て高野山へ送られることとなります。

しかし祖父である信長の高野山攻めが原因で高野山を追放された秀信は、その後26歳の若さでこの世を去りました。

 

信忠が生きていたら

本能寺の変が起こった際、二条御所で討たれた信忠ですが、もし安土城に逃げ、生き延びていたらその後はどうなっていたでしょうか。

まず清州会議には3歳の秀信ではなく、信忠が参加することとなるので、柴田勝家と豊富秀吉が争うこともなく、また秀吉が天下を取ることもなかったと考えられます。

さらには家康による江戸幕府創設や徳川家の鎖国政策も行われなかった可能性があります。

このように信忠一人の命で、その後の歴史的な出来事が左右されたのです。