武田信玄とは?死因や城、名言や子孫などその生涯について解説!

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甲斐の虎の異名を持つ戦国大名・武田晴信(たけだはるのぶ)こと法名・徳栄軒信玄(とくえいけんしんげん)は、清和源氏の流れを汲む名門甲斐武田家の19代当主になります。

越後の龍と言われた上杉謙信と川中島で死闘を繰り広げ、天下取りのために領土を広げて上洛への野望を燃やし続けました。

本拠とした甲斐国には館を持つのみで、天守を備えた城を生涯持つことなく常に相手領土に攻め込んで戦い、領土を広げて上洛の途につきながら病を発症して志半ばで断念したと伝えられる、悲運の武将でもあります。

今回は戦国最強と謳われた騎馬軍団を率いて天下統一を夢見た武田信玄について、信玄亡きあとの子孫の行く末、数多く残したと言われる名言なども含めて紹介したいと思います。

生い立ち

大永元年11月3日(1521年12月1日)甲斐守護職・武田信虎(たけだのぶとら)の嫡男として誕生した武田信玄の幼名は太郎、母は甲斐武田氏の支流である大井信達(おおいのぶさと)の娘で大井の方と呼ばれていました。

甲斐国は信虎の時代に武田氏による統一がなされており、甲府の躑躅ヶ崎館を本拠にして戦国大名としての地位を確立していました。

信玄は天文2年(1533年)扇谷上杉家当主・上杉朝興(うえすぎともおき)の娘を正室に迎えますが、翌年に死去します。

天文5年(1536年)に元服、室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から一字を賜り晴信と改名、継室に左大臣・三条公頼(さんじょうきんより)の娘を迎えました。

またこの年の11月、海ノ口城攻めが初陣であるとされていますが異説もあるようです。

武田信虎は駿河国の今川義元と上野国の上杉氏とは同盟関係で軍事侵攻はもっぱら信濃国に対して行っており、信玄もこれに従軍、天文10年(1541年)の小県郡を攻めた海野平の戦いにも参戦しています。

この年に信玄は父・信虎との確執の末に、武田家重臣の板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)らと謀って信虎を駿河へ追放し武田の家督を相続、第19代当主となります。

 

信濃攻略と2度の大敗そして川中島へ

信濃後略

信玄の信濃侵攻は信虎の佐久・小県攻略ではなく諏訪領へと変更され、桑原城の戦いで破った諏訪頼重(すわよりしげ)を自害に追い込み、長窪城の大井貞隆(おおいさだたか)、高遠城の高遠頼継(たかとおよりつぐ)を滅ぼし、福与城主である藤沢頼親(ふじさわよりちか)を追放し信濃南部を制圧します。

天文13年(1544年)敵対関係にあった北条氏康と和睦、今川義元(いまがわよしもと)と北条氏康(ほうじょううじやす)の対立を仲裁して甲相駿三国同盟へと発展させ、後顧の憂いを絶って信濃侵攻に兵力を集中します。

中信濃への侵攻を開始した信玄は、まずは志賀城の笠原清繁(かさはらきよしげ)を攻略、北信濃への足場を固めます。

 

村上義清に2度の大敗

勢いに乗る信玄は天文17年(1548年)、北信濃最大の勢力を誇る葛尾城の村上義清(むらかみよしきよ)と上田原で激突します。

家督を継いでから連戦連勝を重ねてきた信玄ですが、この戦いでは重臣の板垣信方、甘利虎泰らを失い、自身も負傷する大敗を喫してしまいます。

これに乗じた信濃守護である小笠原長時(おがさわらながとき)は南信濃に出兵してきましたが信玄はこれを撃退、天文19年(1550年)には小笠原長時の林城の攻略に成功し、長時は村上義清のもとに逃げ込みます。

勢いづいた信玄は村上領の砥石城に攻め込みますが、将兵一千名以上を失った「砥石崩れ」と言われる敗北で撤退を余儀なくされます。

しかし翌年に味方となった真田幸隆によって砥石城が落城すると、武田軍はじわじわと村上領を侵略し、村上義清は葛尾城を放棄して越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼ります。

これによって信玄は北信濃一部を除いて信濃国の平定を成し遂げます。

 

川中島の合戦

天文22年(1553年)4月、村上義清の要請を受けた上杉謙信は北信濃への出兵を開始しました。

初めて刀を交えた第一次川中島(布施の戦いまたは更科八幡の戦い)、200日にもわたって睨みあった第二次川中島(犀川の戦い)、謙信との直接対決を信玄が意図的に避け続けた第三次川中島(上野原の戦い)、両軍合わせて三万を越える兵が激突し、七千以上の死者が出たとされる最大の激戦となった第四次川中島(八幡原の戦い)、両軍が睨みあったまま戦わずに引いた最後の対決となる第五次川中島(塩崎の対陣)の永禄7年(1564年)まで、12年間で五回の対決を行いましたが決着がつくことはなく、ただこの戦いにこだわった武田、上杉の両軍の上洛を遅らせることとなりました。

版図を広げ、京を目指す

甲斐の周辺諸国へ勢力を伸ばす

北信濃で上杉謙信と対峙しながら、武田信玄は勢力を拡大すべく、長野業盛(ながのなりもり)の守る西上野・箕輪城を落とし、桶狭間の戦いで今川義元が死去し、今川氏真(いまがわうじざね)があとを継ぐと駿府侵攻を謀り、この障害となった嫡男・義信(よしのぶ)を廃嫡、徳川家康(とくがわいえやす)と密命を結んで駿河への攻め込みます。

ここまで外交上、友好関係を築いていた織田信長が将軍・足利義昭を追放、義昭が信長討伐の旗を挙げるとこれに応じて、織田信長の盟友たる徳川家康の遠江から三河へ進出、瞬く間に五つの城を攻略するも途中で信玄が吐血したため甲斐へと軍を返しました。

元亀2年(1571年)時点での武田信玄の所領は甲斐、信濃、駿河、西上野、遠江・三河・飛騨・越中の一部を含めて120万石となっていました。  

 

最後の上洛戦

織田信長と武田信玄はお互いの領土拡張の戦略上、互いに不可侵であることに利害の一致を見ており、信長の姪と武田勝頼(たけだかつより)の婚姻、続いて織田信忠と信玄の娘・松姫の婚姻と姻戚関係で結ばれていました。

しかし元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちごろから関係が怪しくなり、足利義昭の信長討伐令に応じた武田信玄は徳川領の遠江へ侵攻を開始、三河、東美濃の諸城を攻略して徳川家康と対峙、二俣城を陥落させました。

徳川家康が浜松城で籠城の構えを見せると信玄はこれを無視して西へ向かいました。

無視されたことに激怒した家康はこれを追撃し、三方ケ原で戦闘に及びますが惨敗を喫します。

家康を退けた信玄は元亀4年(1573年)2月に三河国野田城を攻略しここに入りますが、直後に吐血したため長篠城まで退いて療養します。

しかし回復の兆候は見られず武田軍は甲斐への撤退を決め、三河街道を東へ戻る途中の4月12日、信玄は息を引き取りました。

享年53歳、すべてを賭けた上洛戦の途上で夢が潰えた瞬間でした。

 

武田信玄の城と家臣団

信玄が本拠としたのは甲斐国山梨郡古府中(現在の山梨県甲府市古府中)にあった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。

父である武田信虎が築城した連郭式平城で天守閣はなかったとされています。

信玄が本拠にしてからも天守閣を建設することなく、領土が拡張しても一貫してこの躑躅ヶ崎館を居城としていました。

館と言われるだけあって、平屋の屋敷を連ねたもので、軍事的要塞としての機能はほとんどなく、信玄自身も甲斐に攻め込まれてここに籠城する事など微塵にも考えていなかったことが伺えます。

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

武田信玄が家臣に語ったと言われる言葉です。

強固な絆で結ばれた主従関係や家臣同士の繋がりがあれば、強固な城郭や掘、石垣がなくても国を守ることができると言う意味です。

信玄の家臣団には武田二十四将と言われる家臣が存在したと言われていますが、これは江戸時代に描かれた浮世絵などの影響によるもので実際には二十四将という区分は存在していません。

しかし一門、譜代、外様を問わずに内政、外交、戦場で名を残した武将が多く存在し、その家臣の層の厚さは他の大名と比べても抜きん出ています。

 

武田信玄の死因

上洛途上の野田城攻略直後に吐血して床に伏したと言われている武田信玄ですが、吐血の原因は今で言う食道癌、または胃癌ではないかと推測されています。

武田信玄はこれ以前にも何度か吐血しており、晩年は健康状態を維持するのに苦心していたようです。

信玄の死因に関しては他にも結核説や脳溢血説なども存在しています。

 

野田城での狙撃による死亡説

その中で小説やテレビ、映画の脚本によく使われているのが、野田城での狙撃による負傷が原因で死亡した説です。

野田城には城主・菅沼定盈(すがぬまさだみつ)以下500名ほどの将兵が籠城していました。

この中に伊勢国山田出身の村松芳休(むらまつほうきゅう)という笛の名人がおり、日が暮れると毎日笛を吹いて野田城将兵の心を癒していました。

ところがこの笛の音を聴いていたのは城内の者だけではなく、野田城を望むことが出来る崖の上で毎夜、武田信玄が密かに聴いていたのです。

毎日のことであったため、ここに誰かいると気づいた城兵のなかに鉄砲の名人・鳥居三左衛門(とりいさんざえもん)がおり、昼の間に狙いを定めておいて人影が見えたときに狙撃した弾が信玄に命中し、これが信玄の死因になったと言うものです。

黒沢明監督の「影武者」でもこの話を信玄の死因に採用していますが、この話は創作であり、あくまでも伝説とされています。

武田信玄の子孫

信玄亡きあとを継いだ武田勝頼は長篠の合戦で惨敗し、武田家は立て直しの効かないほどの人的被害を受けました。

また生き残った家臣も度重なる勝頼からの出兵要請に嫌気がさし、次々と離反していきます。

天正10年3月織田信忠(おだのぶただ)、金森長近(かなもりながちか)、河尻秀隆(かわじりひでたか)らの織田軍、徳川家康、北条氏直らが一斉に各方面から甲斐を目指して侵攻を開始しますが、多くの家臣が離反していたため武田勝頼は戦いらしい戦いをすることなく天目山で嫡男・信勝とともに自害し武田信玄直系男子の血は絶えます。

しかし、勝頼の娘の貞姫が徳川幕府の旗本・宮原義久(みやはらよしひさ)に嫁ぎ嫡男を産んでいます。

宮原家は幕末まで旗本として続きました。

 

他の信玄の子女たち

他の信玄の子女たちの行く末は、前述の通り長男・義信は廃嫡されのちに自害、次男・海野信親(うんののぶちか)は盲目であったため出家の身でもありました。

ただ子供の信道(のぶみち)は江戸幕府の高家として遇されました。

三男・武田信之は早世、四男が勝頼、五男・仁科盛信(にしなもりのぶ)の子孫も徳川幕府の旗本として仕え、その血を現在まで伝えています。

六男・葛山信貞(かつらやまのぶさだ)は勝頼が自害したときに自刃し、葛山家は滅亡、七男武田信清(たけだのぶきよ)は武田家滅亡後上杉家に帰属して天寿を全うしました。

他家に嫁いだ娘たちもその子孫を残しており、武田信玄の血は現代の日本でも脈々と生き続けています。

 

武田信玄の逸話

現代に伝えられている武田信玄のイメージは武田家重臣の高坂昌信(こうさかまさのぶ)が執筆を開始して昌信の甥に引き継がれ、小幡昌盛(おばたまさもり)の子・景憲(かげのり)が加筆し完成したと言われている「甲陽軍鑑」によって定着しました。

しかし甲陽軍鑑の記述には誤りも多く、歴史的価値が低いとする評価と、当時の文化や習俗等を伝える史料としては価値が高いという評価の二つがあります。

このため武田信玄の実像が甲陽軍鑑通りであったかどうかはこれからの歴史研究に委ねられています。

 

名言

武田信玄は家臣や子息に多くの言葉を教訓として残しています。

そのいくつかを紹介して武田信玄についての解説を締めたいと思います。

 

名言①

名言①
戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。

戦は五分勝てば十分に良い。七分の勝ちはすでに危険な兆候で、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となるという意味で、武田信玄は不必要な追撃戦を行ったり、掃討作戦を行うことはしませんでした。

 

名言②

名言②
大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、もっとも重要である。

 

名言③

名言③
渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。

 

名言④

武将が陥りやすい三大失観

一、分別あるものを悪人と見ること。

一、遠慮あるものを臆病と見ること。

一、軽躁なるものを勇剛と見ること。

将たるものの心得を自分の戒めと子供たちに教えるために伝えたと言われる言葉です。

人の使い方、人への接し方、人の評価の仕方を分かりやすく伝える現代にも通用する教えだと言えます。

 

名言⑤

最後にもっとも有名な武田信玄、武田軍団の存在感を示した言葉です。

風林火山
疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。

風林火山とは武田信玄の軍旗、旗指物に記された言葉「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称です。

この言葉は「孫子」の軍争篇第七で軍隊の進退について書いた部分を引用したものですが、信玄の時代には風林火山という呼び方はなく、これは後世の創作なのだそうです。

ルイス・フロイスの「日本史」によれば、武田信玄は「織田信長がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったと記述されており、戦国最強と言われた武田騎馬軍団の伝説は言い伝え通りの強さを誇っていたようです。