第二次世界大戦後、敗戦した日本でGHQは日本にある軍国主義を思わせるモニュメントなど撤去していきました。しかし、ある人物に関わる物には一切手を触れなかったといいます。
その人物は「東洋のネルソン」と呼ばれた東郷平八郎(とうごうへいはちろう)です。
東郷平八郎は日本の海軍の中でも「神様」と言われ、当時世界最強と言われたロシアの「バルチック艦隊 」を撃破し世界中に名を轟かせました。
東郷平八郎はGHQだけではなく、対ロシアと対峙してきたトルコやフィンランドなど数多くの国々の軍人に尊敬され「アドミラル・トーゴー」と呼ばれ師と敬われています。
そんな東郷平八郎とはどのような人物だったのでしょうか。若かりし頃は、小柄とは言えとても女性にモテたそうですが、身長はどれくらいだったのでしょうか。そしてどのような女性と結婚し、現代の世で活躍している子孫などがいるのかも気になるところです。
また、「肉じゃが」は東郷平八郎が作らせて生まれた物だと言われています。この真相についても調べ、詳しく解説していきます。
東郷平八郎の生い立ち
薩英戦争で初陣を飾り、戊辰戦争でも奮闘
弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下にて薩摩藩士・東郷実友(とうごうさねとも)の四男として生まれました。
16歳の時に父、兄と共に薩摩藩士として薩英戦争に参加し初陣を飾り、21歳の時、藩の海軍所に入所します。
戊辰戦争そして明治へ
戊辰戦争で東郷平八郎は、まず阿波沖海戦を皮切りに薩摩藩籍の「春日丸」に三等砲術士官として乗船し、その後も箱館戦争、宮古湾海戦と新政府軍の一員として戦ったのです。
明治新政府の時代になると東郷平八郎は、東京へ上京し明治3 (1870年)新政府の軍艦「竜驤」(りょうじゅう)の乗組見習士官となりました。
海軍留学生としてイギリスへ
明治4年(1871年)24歳の時、海軍の第1回留学生として明治11年(1878年)まで7年間、イギリスに留学します。
ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーで学び、その後、商船学校のウースター協会で学びました。
留学に関する逸話
この留学に関して興味深い話が残されています。
東郷平八郎は当初、留学するなら鉄道技師になることを希望していて、最初、大久保利通(おおくぼとしみち)に「留学をさせてください」と頼みました。
しかし、色よい返事はもらえず、後に大久保利通が「平八郎はおしゃべりだから駄目だ。」と他者に言った事を伝え聞いて、西郷隆盛(さいごうたかもり)に頼み込んだ所、快諾されて東郷平八郎のイギリス行きが決定したという話があります。
ただし、「東郷さんの番頭」と揶揄されるほど東郷平八郎に傾倒し、「東郷元帥詳伝」を編集した海軍中将・小笠原長生(おがさわらながなり)が東郷平八郎に直接思い出話として経緯を訪ねた所、大久保利通や西郷隆盛の話は出ず、選抜の理由は解らず易者に占ってもらったと語ったそうなので、事実なのかどうかもわからず風説として語り継がれています。
イギリス留学後、寡黙な人となる
この、大久保利通からの「おしゃべりだから」という事を気にした事と、イギリスでの対人関係などで、元々はとてもおしゃべりなタイプだった東郷平八郎はガラリとキャラを替えて寡黙に務める様になり、後年は「沈黙の提督」と呼ばれるようになったそうです。
西南戦争で実兄が自決
東郷平八郎は、西郷隆盛が西南戦争を起こし自決したことをイギリスから帰国途上中に知り「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って西郷隆盛の死を悼んだと言います。
事実、東郷平八郎の実兄は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決しているので、弟である平八郎もそうしていた可能性が高いです。
イギリスから帰国後、数々の活躍をする
清仏戦争に参加し、ハワイ政変では邦人保護に努める
明治17年(1884年)清仏戦争の際には「天城」の艦長として仏・クールベ艦隊に従い、明治26年(1893年)ハワイ政変が起こると「浪速」の艦長として邦人保護に急行し、クーデター勢力を威嚇しました。
日清戦争
明治27年(1894年)の日清戦争が起こると東郷平八郎は「浪速」艦長として豊島沖海戦/高陞号事件(こうしょうごうじけん)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。
この時の、高陞号事件では停泊の警告に応じないイギリス商船「高陞号」を東郷平八郎は撃沈します。
イギリスは態度を硬化させますが国際法上適法な撃沈として処理され、日本は一切の責めを負うことなく決着したのです。
イギリス留学で国際法を学んだ東郷平八郎の経験と熟考した判断力が、フルに生かされる事となり大変評価されました。
日露戦争
日露戦争開戦の前、東郷平八郎は常備艦隊司令長官に任命され翌年には大将に昇進、その後、連合艦隊が編成されると第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命され、日露戦争開戦では連合艦隊司令長官として歴史に残る活躍をし日露戦争終結まで指揮を執ります。
「アドミラル・トーゴー」として世界的名声を得る
東郷平八郎は日本海海戦において、旗艦「三笠」に座乗して当時世界最強レベルと言われロシアが誇るバッルチック艦隊を迎撃し、バッルチック艦隊はそのほとんどを失い、近代開戦史上類の無い日本海軍の圧勝で日本海海戦を終わらたのです。
この日本海海戦の日本海軍の勝利は世界中を駆け巡り、ロシアの圧力に苦しんでいたトルコやフィンランドなどの国々を歓喜させ、アメリカやイギリスなどの強国を驚かせ、東郷平八郎の名が「アドミラル・トーゴー」という名称とともに世界的英雄として知られる事となりました。
東郷平八郎の晩年と最後
日露戦争後は英雄として数々の勲章を授与され、軍令部長、軍事参議官を経て第一線を退きました。
その後、大正2年(1913年)、元帥に列せられ、東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力します。
晩年は、海軍の神様、重鎮として発言が活発化し軍政の動向や混乱に大きく影響を与える存在となったようです。
東郷平八郎は昭和9年(1934年)に病気の為に89歳で亡くなった際、国葬として葬られ、世界各国の海軍の儀礼艦が訪日、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射しました。
東郷平八郎と肉じゃが
昭和60年代のテレビ番組が拍車をかけて、まことしやかに語り継がれている日本のおふくろの味の中で定番の料理「肉じゃが」は、東郷平八郎が発した言葉が元で生まれた料理という噂がありますが、本当なのかどうか調べてみました。
噂の内容
明治三十四年、舞鶴海軍鎮守府の初代司令長官であった東郷平八郎が、青年期の英国留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず料理士官に作るように命じました。
しかし、日本の調味料は砂糖、醤油、ごま油などしかなく、赤ワインで煮込んだ味に近づけるために試行錯誤して作り上げたのが「肉じゃが」だという話です。
実話ではなさそう?
しかし、当時すでにビーフシチューは日本に伝わっている料理であったことと、肉の甘煮や牛鍋などがあったことから、料理士官がビーフシチューを知らなかったというのは少しおかしな話です。
その上、海軍料理研究家の著名人や、舞鶴(肉じゃがで町おこしをしている)の地域関係者の方もネタばらしをしているようで、町おこしの一環で考案したような記述や記事が多数存在するのです。
この事からも東郷平八郎が「肉じゃが」を起案した説は実話ではなさそうだというのが結論です。
東郷平八郎はイケメン?
東郷平八郎は小柄でしたが端正な顔立ちで若い頃から晩年まで、芸者にとてもモテたと言われています。
当時で小柄と言われているので、身長を調べてみると150㎝~160㎝ほどだったようですが実在する写真などを見ると若き頃は清々しい美男子で、晩年の軍服姿などは小柄なことを思わせない威厳のある風貌です。
東郷平八郎の子孫
東郷平八郎は妻のテツとの間に二男二女を授かっています。
長男 東郷彪(とうごうひょう)
爵位は侯爵・農商務官僚、宮内官僚、貴族院侯爵議員などを務めました。
次男 東郷実(とうごうみのる)
最終階級・海軍少将。「尻矢」特務艦長として太平洋戦争に参戦しています。
次女 園田千代子(そのだちよこ)
園田実海軍少将の妻となりました。
孫
東郷良一(とうごうりょういち)
少尉として第二次世界大戦に参戦、比島沖海戦で戦死し、のちに2階級特進大尉となりました。
東郷良子(とうごうりょうこ)
19歳の時に家出をして浅草のカフェーで女給としてアルバイトした事がマスコミにばれ、国民新聞などに執拗にデマを書きたてられて良家の子女としての立場を失いました。
現在活躍中の曾孫
東郷宏重(とうごうひろしげ)。防衛大学校卒・海上自衛官