豊臣秀次とは?多くいたとされる妻や刀、子孫について解説!

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豊臣秀次とは戦国時代に活躍した武将、戦国大名です。

豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の長男として誕生し、浅井長政の家臣・宮部継潤の人質となった後、三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となると「三好信吉」を名乗りました。

その後、叔父にあたる豊臣秀吉が天下人となると羽柴姓に復氏し、名前を「秀次」と改めます。

文禄元年(1592年)から始まった文禄の役を目前に豊臣秀吉から関白職を譲られ、2代関白に就任するものの、豊臣秀吉に嫡子・秀頼が誕生したことから強制的に出家に追い込まれ、切腹し亡くなりました。

そんな豊臣秀次の生い立ちや経歴、また多くいたとされる妻や子孫、刀について解説していきます。

豊臣秀次の生い立ち

豊臣秀次は永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀と弥助(後の三好吉房)の長男として誕生しました。

 

姉川の戦い

元亀元年(1570年)4月、織田信長と朝倉義景が対立すると、織田信長と同盟関係を結んでいた浅井長政は盟友である朝倉義景に味方し、織田信長を裏切ります。

これによって織田信長軍は朝倉軍、浅井軍に包囲される形となり、金ヶ崎の戦いで一時撤退を余儀なくされました。

6月に徳川家康が織田軍に加わると、朝倉・浅井軍との間で姉川の戦いが勃発し、織田軍・徳川軍は勝利を治めます。

その後、敗走した浅井長政は父とともに織田軍に対抗し、小谷城に籠城しました。

織田軍による小谷城攻めは浅井氏が籠城したため長期化となりましたが、浅井氏の城である横井城は陥落したため、織田信長の家臣であった豊臣秀吉が横井城にはいることとなります。

 

宮部継潤の養子となり「宮部吉継」と名乗る

横山城の責任者となった豊臣秀吉は未だ浅井氏が籠城する小谷城の調略を次々と試み、元亀3年(1572年)、宮部城の城主であり浅井氏の家臣であった宮部継潤を巧みに豊臣軍に勧誘しました。

その際、宮部継潤の命の安全を保障するための人質として送られたのがまだ4歳の豊臣秀次でした。

豊臣秀次は名目上、宮部継潤の養子として迎えられ名前も「宮部吉継」と名乗るようになります。

 

羽柴氏または木下氏に復す

天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落となり籠城していた浅井長政らは自害し、これによって浅井氏が滅亡となりました。(小谷城の戦い)

織田信長は第一の功績を豊臣秀吉と認め、小谷城を豊臣秀吉に与えます。

宮部継潤もまた豊臣秀吉の与力の1人とされました。

豊臣秀次がいつまで宮部継潤の養子となっていたかは分かっていませんが、宮部継潤が豊臣秀吉の家臣となって以上、豊臣秀次が宮部継潤の養子となっている必要はなかったため、天正2年(1574年)長浜城が築かれた頃には豊臣秀吉が豊臣と名乗る前の羽柴氏か木下氏に復していたと考えられています。

本能寺の変

天正3年(1575年)、畿内で行動していた松永久秀や三好三人衆が織田信長に降ります。

その際、阿波国に勢力を持ち河内高屋城で籠城していた三好一族の三好康長も織田信長に降りましたが、三好康長は織田信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を織田信長に献上したことから、一転して織田信長の家臣として重用されるよいになりました。

この頃、織田信長は土佐国を統一していた長曾我部元親を安堵していましたが、天正8年(1580年)長宗我部氏が阿波国に勢力を伸ばし、織田方についていた三好康長の息子・三好康俊や甥・十河一存の城を攻めるようになると情勢は変わりました。

これに対し天正9年(1581年)3月、織田信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称し、長宗我部氏に対し阿波国の占領地半分を返還を命じましたが、長宗我部氏はこれに対抗し、結果、織田氏と長宗我部氏は対立関係となりました。

翌年には織田信長の三男・神戸信孝が総大将となり四国討伐が行われるはずでしたが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起き、織田信長が亡くなったため、これによって四国討伐は中止となりました。

 

三好康長の養子となり「三好信吉」と名乗る

明確な時期は分かっていませんが、この頃三好康長は豊臣秀吉と関係を深めるため、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次を養子に迎えます。

養子として迎えられた豊臣秀次は「三好信吉」と名乗るようになりました。

豊臣秀次を養子に迎えた三好康長でしたが、本能寺の変後から出奔したとされその後の消息は不明で、一説によると出家したと考えられています。

三好康長の実子である康俊もこの時期に姿を消しているため、天正11年(1583年)頃、残った三好信吉(豊臣秀次)が三好家の家臣団を率いるようになりました。

また天正11年(1583年)頃には、池田恒興の娘・若政所を正室に迎えています。

 

「羽柴信吉」と名乗る

天正11年(1583年)1月、滝川一益が挙兵すると三好信吉(豊臣秀次)は総大将として2万の兵を率い、滝川儀太夫が籠城する峯城を攻略します。

さらに、同年4月に起きた、叔父・豊臣秀吉と柴田勝家の争いである賤ヶ岳の戦いにも出陣しましたが、大きな活躍はなかったとされています。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉は、織田信長亡き後、後継者として天下人となると、三好信吉(豊臣秀次)は豊臣秀吉に重用されるようになり天正12年(1584年)の春頃には羽柴姓に復帰して、「羽柴信吉」と名乗り始めました。

小牧・長久手の戦いに出陣

その後天正12年(1584年)から始まった、豊臣秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営との間で行われた小牧・長久手の戦いで、羽柴信吉(豊臣秀次)は天下人の甥として期待され出陣しましたが、榊原康政・大須賀康高らの奇襲を受け、壊滅的な大敗という結果となりました。

そのため、見苦しい大敗を見せたとして叔父・豊臣秀吉から叱責を受けたとされています。

 

「羽柴秀次」と名乗る

天正13年(1585年)叔父・豊臣秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると羽柴信吉(豊臣秀次)も出陣し副将を任されるなどして汚名返上の機会を得ます。

また同年6月に行われた四国征伐では、病気を患った叔父・豊臣秀吉に代わり総大将を任され比江山親興の籠る岩倉城を攻めて落城させるといった活躍を見せました。

同年7月頃、叔父・豊臣秀吉が関白就任前後に「羽柴秀次」と名乗ったとされています。

その後、天正18年(1590年)の小田原征伐に副将として出陣するなどの活躍を見せました。

 

関白に就任する

天正19年(1591年)叔父・豊臣秀吉の嫡男・鶴松が亡くなります。

これによって後継者を失うこととなった叔父・豊臣秀吉は後継者として同年11月に豊臣秀次を養子に迎えました。

この頃になると、叔父・豊臣秀吉は関白職を辞していたため、12月に豊臣秀次は関白に就任することとなり、豊臣秀次は天下人となりました。

 

豊臣秀頼の誕生

関白に就任し、豊臣秀吉の後継者となった豊臣秀次でしたが、豊臣秀吉と側室との間に豊臣秀頼が誕生すると立場は一転します。

豊臣秀吉は豊臣秀次を自身の後継者に指名したにも関わらず、実子・豊臣秀頼が誕生した事によって、豊臣秀頼を後継者にしたいと考え始めました。

そのため豊臣秀次はやがて豊臣秀吉から疎まれるようになります。

 

謀反の疑いが持ちあがる

そんな中、文禄4年(1595年)6月末、豊臣秀次が豊臣秀吉に対し謀反の疑いが持ちあがります。

これを受け、石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近などが聚楽第にいた豊臣秀次のもとに訪れ、謀反の真意を確かめました。

もちろん豊臣秀次は謀反の疑いを否定し、謀反の意志はないことを記した誓約書7枚を提出しましたが、同年、7月5日に石田三成が豊臣秀吉に対し、対立関係である毛利輝元と豊臣秀次は繋がっている証拠が見つかったことを報告します。

これを受け、豊臣秀吉は伏見城へと来るように豊臣秀次に促しましたが、石田三成の行った報告は事実無根であったため、豊臣秀次はすぐに伏見城へと向かわなかったとされています。

 

高野山へ入り出家する

7月8日になると再び、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名が豊臣秀次のもとに訪れ伏見城へ行くことを促すと、豊臣秀次はこれに応じ、5人とともに伏見城へと向かいました。

しかし、伏見城へと向かったものの、福島正則に入城を遮られ木下吉隆(半介)の邸宅に待機することとなります。

その後も豊臣秀吉に面会することは許されず、使者から「高野山で待機するように」と命じられます。

これを受け豊臣秀次は剃髪し7月10日に高野山青巌寺に入ると、この地で隠棲の身となり出家の際には「道意」と名乗りました。

 

豊臣秀次の最期

それから5日後の7月15日、豊臣秀次のもとに福島正則・池田秀雄・福原長堯が兵を率いて訪れます。

この3人は豊臣秀次に豊臣秀吉に対し謀反を起こそうとしたとして切腹を命じ、豊臣秀次はこれを受け28歳という若さで亡くなりました。

刀「南都住金房兵衛尉政次」

豊臣秀次は数々の名刀を所持していたとされていますが、豊臣秀次の介錯に用いられた刀「南都住金房兵衛尉政次」は豊臣秀次の介錯を行った家臣・雀部重政の兄・雀部六左衛門の子孫に渡ったとされ、現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されています。

 

多くいた妻

豊臣秀次には正室で池田恒興の娘・若政所をはじめ約32人の側室がいました。

中には公家の娘や大名の娘などがいたとされています。

しかし、豊臣秀次が自害し亡くなってもなお、豊臣秀吉の怒りは治まらなかったとされ、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら計39名が三条河原で斬首されました。

 

豊臣秀吉がここまでして豊臣秀次を疎んでいた理由

ここまでして豊臣秀吉が豊臣秀次を疎んでいたのは、単に実子・豊臣秀頼が誕生したためだけではないとされています。

豊臣秀次は幼いころから喘息を患っていたとされています。

そのため朝鮮出兵にも参加できませんでした。

そのような姿を関白であった豊臣秀吉は不満を抱いていたのではと考えられています。

他にも豊臣秀次と素行が悪かったため、豊臣秀吉からこれだけ嫌われていたとも考えられますが、豊臣秀吉がなぜこれほどまで豊臣秀次を疎んでいたのかは分かっていません。

 

子孫

豊臣秀次には多くの側室がおり、そのため数人の子供がいたとされていますが、豊臣秀次の死後、豊臣秀吉によって処刑されたため、豊臣秀次の血の繋がりのある子供がいるかどうかは分かっていません。

しかし、豊臣秀吉の処刑から難を逃れたとされる豊臣秀次の娘・隆清院は、真田信繁の側室となり、真田信繁との間に三男・三好幸信、五女・御田姫を出産しています。

後に五女・御田姫は亀田藩の藩主・岩城宣隆に嫁ぎ、岩城重隆を出産しました。

しかし、岩城家は他家から養子を迎えているため、豊臣秀次の血はここで途絶えたとされています。

また三好幸信にも隆長と呼ばれる子供がいたとされていますが、どのような生涯を送ったのか判明していないため、豊臣秀次の血が途絶えたのか、それとも続いているのかは分かっていません。