山内容堂とは?酒や坂本龍馬との関係、子孫や墓についても解説!

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幕末の四賢候の一人として、幕末の動乱、坂本龍馬という人物、大政奉還を語る上で土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)という人物は要となる存在です。

酒と風流をこよなく愛し、文武両道で豪放磊落であった山内容堂とはどのような人生を歩んだのでしょうか。また、側室も10人を超えて抱えていたと言いますが、子供や子孫などの人生も気になります。

山内容堂の人生を追いながら、山内容堂の死後、子孫の活躍や土佐(高知県)に存在しない山内容堂の墓のことなどを詳しく説明していきます。

山内容堂とは

お家存続の為、ピンチヒッターとして登場

山内容堂の「容堂」は安政の大獄の折り隠居後の号であり、本来は山内豊信(やまうちとよしげ)といいます。

山内容堂は文政10年(1827年)土佐山内家分家の側室の子として生まれ、家督を継ぐ序列でも一番下の格式で江戸屋敷ではなく土佐城下で育ちました。

13代藩主・14代藩主と直系の藩主が相次いで急死し、14代藩主・山内豊惇(やまうちとよあつ)の実弟も3歳だった為に山内家は断絶の危機に瀕します。

そこで、急遽ピンチヒッターとして当時22歳になっていた分家の山内容堂が候補となり、15代土佐藩主となりました。

 

旧体制を嫌い藩政も人事も刷新する

藩主の座に就いた山内容堂は、分家の出といのもあり門閥・旧臣による藩政を嫌い、当時土佐の革新派の中心人物であった吉田東洋(よしだとうよう)を起用しました。

旧臣の家老を押しのけ、吉田東洋を参政職に任じ藩政改革を推し進めていきます。

藩政改革や人事の刷新は諸藩にも聞こえ、幕政にも積極的に介入し福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)ともに幕末の四賢侯と称されました。

 

安政の大獄で隠居し謹慎する

山内容堂は幕政と将軍継嗣問題にも積極的に介入、他の四賢候ら一橋派とともに幕府主流派と対立します。

将軍継嗣問題は、彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)が大老となり、将軍世子は徳川家茂(とくがわいえもち)に決定しました。

その上、一橋派の動きに井伊直弼は弾圧という形をとり、世に言われた「安政の大獄」によって、藩主である山内容堂は福井藩・松平春嶽などと同じように隠居・蟄居することとなります。

 

藩政復帰と土佐勤王党の粛清

井伊直弼が桜田門外の変によって暗殺されたことで政局がひっくり返り、山内容堂も謹慎が解かれ藩政を掌握し復帰します。

山内容堂の謹慎中に土佐藩内では武市半平太/瑞山(たけちはんぺいた/ずいざん)を首領とする尊王攘夷派・土佐勤王党が台頭し、山内容堂の片腕の存在である吉田東洋と対立し、土佐勤王党の党士に吉田東洋が暗殺されるに至り、武市半平太が藩政を掌握していました。

公武合体派である山内容堂は、まず吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の大粛清に乗り出し、武市半平太を切腹させ土佐勤王党を壊滅させます。

 

大政奉還建白と徳川幕府の終焉

討幕という時代のうねりを止めることができず、徳川家への恩義もあり公武合体を模索し続けた山内容堂は、吉田東洋に替り、吉田東洋の甥である後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を信頼して後藤を参政とし、彼の提言に耳を傾けていきます。

後藤象二郎もまた、時代を読み取り藩政や幕政に奔走し元土佐藩士である坂本龍馬と出会い、大政奉還論を聞いて大いに賛同し山内容堂に自らの意見として大政奉還論を提言するのです。

山内容堂は大政奉還論を妙案と考えて徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に建白し、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を上奏し徳川幕府の時代を終わらる事となりました。

 

明治以降の山内容堂

明治維新後は新政府で内国事務総裁に就任しますが、元家臣や領民の身分の者達と一緒に仕事をすることがどうしてもできず、辞職します。

しかし、思う事も多々あったのか晩年は諸々の思いをかき消すように妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れ、酒楼で豪遊する生活を送りました。

また、新政府でも圧倒的に土佐藩からの要職者は少なく薩長に対抗できる者がおらず、武市半平太を切腹させたことを悔やんでいたと言います。

積年の飲酒が祟り、脳溢血で倒れ46歳の生涯を終えました。

山内容堂と酒

山内容堂という殿様を語る上で、酒を外すわけにはいきません。

自ら、鯨海酔侯(げいかいすいこう)「クジラが泳ぐ海の酔っぱらい殿様」と名乗り1日に三升(約5.4リットル)も酒を飲んだと言います。

酔っている時と素面の時が正反対「酔えば尊王、覚めれば佐幕」と揶揄されていたほどで、新政府でも要職につきますが泥酔して遅刻したりとにかく酒癖は悪かったようです。

山内容堂が特に好んで愛飲していた日本酒の銘柄は「剣菱」でした。

 

山内容堂と坂本龍馬の関係

坂本龍馬の小説やテレビドラマなどでは、御前試合や勝海舟(かつかいしゅう)に付き添う形での山内容堂への謁見など、山内容堂と坂本龍馬が面識があるような場面がありますが、残念ながら実際には山内容堂と坂本龍馬が会ったという記録は存在しません。

山内容堂は松平春嶽のように才があれば誰でも気さくに会うような身分に砕けた殿様ではありませんでした。

坂本龍馬が唱えた大政奉還論も、後藤象二郎が参政だったからこそ山内容堂に伝わったのであり、坂本龍馬単独で山内容堂に直接提言することはできなかったでしょう。

坂本龍馬が暗殺されず明治以降も生きていれば、山内容堂も坂本龍馬も新政府の要人として対面することが叶ったはずです。

 

山内容堂の子孫

版籍奉還により、16代藩主 山内豊範(やまうちとよのり)で藩主は存在しなくなり、以後は当主として政治家・軍人・実業家として子孫の血筋は脈々と受け継がれていきます。

現在ご存命でご活躍している18代当主の方まで、山内容堂の子孫の方々を紹介していきます。

 

勢(大橋氏)との間にできた山内容堂の直系の子

次男・山内豊尹(やまうちとよただ)

子爵。

 

娘・山内八重子(やまうちやえこ)

東伏見宮依仁親親王(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)の王妃となりますが、離婚し、外交官・秋元興朝(あきもとおきとも)の継室となりました。

 

鯉尾(りお)(水上氏)との間にできた山内容堂の直系の子

娘・山内光子(やまうちみつこ)

北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)の妃となりますが、病弱が理由で離縁されました。

 

山内容堂の孫

山内豊景(やまうちとよかげ)

最終階級・陸軍少佐、貴族院議員。

 

山内豊中(やまうちとよなか)

最終階級・海軍少将。軽巡洋艦「神通」・第二代艦長。

 

山内容堂の曾孫

山内豊秋(やまうちとよあき)

山内家18代当主で山内興業社長、テレビ高知副会長、靖国神社崇敬奉賛会初代会長。

 

山内容堂の玄孫

山内豊功(やまうちとよこと)

山内家19代当主で山内興業社長、山内神社宮司。

 

山内容堂の墓

山内容堂の墓だけ土佐(高知県)に存在しない

土佐藩初代藩主・山内一豊(やまうちかずとよ)から18代当主まで、土佐山内家の歴代藩主の墓は土佐(高知県)日輪山(筆山)にあります。

しかし、15代藩主・山内容堂の墓だけかつての土佐に存在しません。山内容堂の墓は東京都品川区東大井の 大井山公園内の一角にあり、品川区の指定遺産となっています。

 

山内容堂が愛した場所

山内容堂はとても思いこみが強く一途で、沢山いた側室の中で藩全体、親族、他藩の藩主からも反対されても押し切って側室にした女性がいました。

その女性は老中・阿部正弘(あべまさひろ)の側室で鯉尾(りお)という他藩にも聞こえる絶世の美女だったそうです。

阿部正弘が亡くなって、周囲の反対を押し切って鯉尾を側室にした山内容堂ですが、ちょうど安政の大獄で隠居する時期と重なり、山内容堂は鯉尾とその鯉尾が産んだ赤子(光子)を連れて品川下屋敷に謹慎します。

当時、大井村の下総山は土佐藩下屋敷が建てられてから土佐山と呼ばれ、紅葉の名所で品川の海も良く見えたことから山内容堂のお気に入りの場所でした。

愛娘と最愛の人を連れての品川下屋敷での生活は、山内容堂の人生の中でかけがえのない時間となり、山内容堂本人の遺言として品川区東大井にある土佐山に葬られることになったのです。