九州三國志と呼ばれた大友、龍造寺、島津の三氏が戦いに明け暮れた戦国時代末期ののち、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征伐を経て、関ヶ原の合戦後の島津忠恒(しまづただつね)、後の家久(いえひさ)が当主となって誕生した徳川幕府時代の薩摩藩。
実は鎌倉時代から幕末までの約700年間、一度も変わることなく島津氏が支配を続けたのです。
戦国時代には多くの名将、猛将を生み、幕末には歴史を動かした数多くの人材を輩出した薩摩藩とはどんな歴史を持ち、どのように形成されてきたのか、場所や家紋などを含め、丹念に調べてみたいと思います。
薩摩藩ってどこ?その具体的な場所
鎌倉時代初期に島津氏が守護として薩摩(鹿児島県西部)、大隅(鹿児島県東部)、日向(宮崎県)の三カ国の守護に任ぜられて以来、ここを本拠地として島津氏は守護大名、戦国大名として名を馳せます。
天下分け目の関ヶ原の合戦で石田三成(いしだみつなり)に与して西軍として参戦し、窮地に立つも硬軟併せ持った外交で本領安堵を勝ち取り、幕末まで続く薩摩藩の領土がほぼ確定します。
領土は現在の鹿児島県全域と宮崎県の都城市や小林市、宮崎市の一部に奄美諸島を加えた広さで、1609年には琉球出兵による琉球国の間接支配によってその領土も実質的な支配に加えていました。
最高石高77万石、琉球を加えると実質90万石となり、加賀藩(前田家)に次ぐ大藩だったのです。
薩摩藩の教育環境
徳川幕府時代に島津忠恒(しまづただつね)が藩主として認められてから始まったとされる薩摩藩は、廃藩置県によってその名が鹿児島県に変わるまで、12代、約270年続きました。
薩摩藩が領有した土地は鎌倉時代から領主が島津氏から変わることがなかったため、非常に閉鎖的で独自の社会を形成する事になります。
その一つが薩摩藩独自の教育環境、郷中教育です。
郷中教育とは?
領主の交代を経験していない薩摩では藩主居城(鹿児島城)城下に士分の者を集めて居住させる必要性がなかったため、領内各地にまとまって住まわせており、この集団が居住するエリアを外城(とじょう)といい、のちに郷と改められました。
この郷の中で行われる教育を郷中教育といい、「一、第一武道を嗜むべき事」として薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)という薩摩藩独自の剣術が奨励、体育教育として行われ、幼少期から青年期まで郷中頭と言われるリーダーの元で生活面など全てを集団教育で学んでいきます。
これが明治維新後、西南戦争勃発の引き金のひとつとなった私学校へと繋がっていきます。
薩摩藩の家紋
薩摩藩藩主島津氏が使用していた家紋と言えば当然、島津十文字ですが、旗に漢数字の十だけを描いた旗印は関ヶ原の戦いまでしか使われておらず、その後はいわゆる轡十字(くつわじゅうじ)と言われる、丸に十文字へと変わっています。
1549年、戦国時代真っ只中に日本にやって来た宣教師・フランシスコ・ザビエルは薩摩に上陸したとき、島津氏の旗印を見て白い十字架を使っていると勘違いし驚いたと言う記述が残されています。
島津十文字の起源は?
島津十文字の発祥については色々な説が唱えられており、島津国史では二匹の龍を模したものと書かれており、鎌倉時代の奥州合戦で源頼朝(みなもとのよりとも)が島津氏初代・島津忠久(しまづただひさ)に箸で作った十文字を家紋にさせた説(西藩野史)、中国の風習であった災いから身を守り福を招く十字を切る仕草をそのまま家紋にした説(日本紋章学)が唱えられています。
幕末に薩摩軍が出動した政変や戦闘には必ず、丸に十文字の島津の旗印が立って薩摩隼人の戦いぶりを見つめていたのです。
薩摩藩の台所事情
薩摩藩の表高77万石の大藩でしたが、米の収穫に関しては少し困った事情がありました。
それは薩摩藩の土地の半分程度がシラス台地(細粒の軽石や火山灰で出来た台地)で、水持ちが非常に悪く稲作には全く適さない土地柄です。
このため実質の石高は35万石程度だったと言われています。
薩長同盟で米を調達
1866年に結ばれた薩長同盟の交渉中に仲介役であった亀山社中の坂本龍馬が薩摩藩と長州藩を接近させるために武器の購入が不可能であった長州藩のために薩摩藩の名義で武器を購入し、その見返りに長州藩から薩摩藩に米を供給しようとしたのは有名な話です。
薩摩藩は米の栽培に適した土地が少ないため、戦時の兵糧米に困ることが多かったのです。
サトウキビや貿易で莫大な利益
では薩摩藩自体の台地事情が苦しかったかと言えば、そうではありません。
まずは奄美諸島には各島々に代官を派遣し、産出されるサトウキビから作られた砂糖が莫大な利益をあげており、間接支配していた琉球王国は奉行を派遣して大陸、特に中国との貿易に力を入れ、こちらも大きな利益をあげていました。
米や作物による農業資本よりも貿易や特産物による商業資本による利益が薩摩藩の財政を支えていました。
歴史上有名な薩摩藩出身者・幕末編
島津斉彬(しまづなりあきら)
薩摩藩第11代藩主、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、いわゆる集成館事業を興して藩の富国強兵を進め、これと同時に若き藩士の発掘、育成も熱心に行い、西郷隆盛や大久保利通などを世に送り出しました。
島津久光(しまづひさみつ)
薩摩藩第12代藩主・島津忠義(しまづただよし)の父で島津斉彬の弟に当たります。
藩主ではありませんでしたが、薩摩藩の国父と言う立場で実質的な最高権力者でした。
久光が薩摩藩の権力を握る課程で西郷隆盛をリーダーとする精忠組を藩政の中心に据えたため、彼らが大きな実権を握るようになりましたが、生涯を通して西郷隆盛とは反りが合わずに遠島に処したこともあります。
西郷隆盛(さいごうたかもり)
島津斉彬に見出だされて薩摩藩の舵取り役となり、禁門の変、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争で活躍。
日本で最初の陸軍大将となり政治家としても参議として国を動かしましたが征韓論に敗れて下野し西南戦争の首謀者として最後は自刃しました。
大久保利通(おおくぼとしみち)
島津斉彬に見出だされたのは西郷隆盛と同じながら、島津久光の側近となり明治新政府では岩倉具視の後ろ楯で版籍奉還や廃藩置県を断行、征韓論で西郷隆盛らを下野させると一気に明治政府の実権を掌握し、徴兵制や地租改正を行います。
独断専行と見られることが多く、敵も多かったようで最後は不平士族によって暗殺されます。
篤姫(あつひめ)
徳川幕府第13代家定御台所、家定の死後は天璋院(てんしょういん)と名乗ります。
第9代薩摩藩主・島津斉宣(しまづなりのぶ)の七男、今和泉島津家第10代当主・島津忠剛(しまづただたけ)の長女。
島津斉彬の養女となり、その後に近衛忠煕(このえただひろ)の養女となって家定に嫁ぎます。
こののちは徳川の人間として振舞い、明治新政府に徳川慶喜の助命嘆願や徳川家の救済に奔走することになります。
小松帯刀(こまつたてわき)
薩摩藩家老として西郷隆盛、大久保利通ら幕末に薩摩藩で活躍した藩士達を支えただけでなく、土佐藩の坂本龍馬の亀山社中設立を援助したり、長州征伐によって武器の購入が禁じられている長州藩の井上馨と伊藤博文を武器商人トーマス・グラバーに引き合わせたりと、他藩の志士からも信頼を集めた人望厚き人物でしたが、弱冠36歳で病死しました。
幕末から維新での薩摩藩の存在
公武合体から武力倒幕へ路線を転換し、常に幕末の歴史の中心に位置した薩摩藩は、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争で活躍する多くの軍人を輩出し、明治新政府が樹立されると政府を支える官僚にも多数の人材を送り込みました。
結果として政府の要職の多くを薩摩と長州とが分けあう薩長政治(藩閥政治)をながく続けることになってしまい、多くの弊害ももたらすことになります。
また薩摩出身者は西南戦争で多くの有能な人物を失い、人材が後々枯渇していくことになります。
薩摩藩の存在が明治維新をもたらしたのは間違いのない事実ですが、今も残る縦割りの官僚政治の基礎を築いたのも大久保利通率いる薩摩派閥なのです。
こう考えると現在の日本政府は未だに明治維新の亡霊を引きずっているのかもしれませんね。