源頼朝について!死因や墓、家系図・子孫や年表をわかりやすく解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし初代征夷大将軍となった人物です。

後に鎌倉幕府と呼ばれる朝廷から独立した政権を開始しました。

そんな源頼朝の生涯と死因や墓、家系図や子孫また年表などを解説していきます。

源頼朝の生い立ち

久安3年(1147)源頼朝は尾張国熱田で源義朝の三男として誕生しました。

父・源義朝が保元元年(1156)におきた保元の乱で勝利すると、源頼朝は保元3年(1158)に統子内親王の皇后宮権少進に任命され、翌年2月には天皇の秘書的役割であった上西門院蔵人に任命されます。

また同年6月には二条天皇の蔵人となり、兄の、義平、朝長よりも昇進が早かったため実質的に父・義朝の嫡男として待遇されるようになりました。

 

平治の乱

二条天皇親政派と後白河院政派の争いによって引き起こされた平治の乱では父・義朝が後白河院政派に味方し三条殿焼き討ちを決行し、平治の乱への参加となります。

平清盛との戦に敗れた父・義朝は逃亡途中に尾張国野間で長田忠致によって討死となり、長兄・義平は都で潜伏していたところを捕らえられ処刑、次兄・朝長は逃亡中に命を落とします。

源頼朝は1人はぐれ逃亡を続けていましたが、平宗清に捕らえられ六波羅探題へと送られました。

源頼朝の処刑は確実であったものの、平清盛の継母・池禅尼によって処刑は免れ、伊豆へと配流されることとなります。

 

伊豆へと配流される

源頼朝が配流された伊豆での史料はあまり残されておらず不明な点が多いとされています。

しかし、安定した自由な暮らしを送っていたそうです。

亡き父・義朝や兄弟を弔いながらも地方武士として暮らし、流人である立場でありましたが、京都の情報は定期的に乳母の甥・三善康信から報告され、また伊豆の豪族・北条時政の長女・政子を正室に迎えました。

また2人の間には長女・大姫が誕生したとされています。

 

平氏追討

治承4年(1180)になると後白河法皇の皇子・以仁王からの平家討伐の命が配流されている源頼朝のもと届けられました。

以仁王は宇治で、源頼政らとともに討死となりましたが、源頼朝はこの時は平氏討伐には参加しませんでした。

しかし、平氏が源氏討伐の計画を企てると、自身に危機が迫っていることを知り平氏討伐のために挙兵を決意します。

挙兵した源頼朝は伊豆国目代の山木兼隆を討ち取り、伊豆国の制圧を果たしました。

このことによって源頼朝に従う武士は増えましたが、平家方の武士との石橋山の戦いで敗れ、数日間山中を逃げ回った後、船で安房国へと向かいます。

関東平定

治承4年(1180)に安房国平北郡猟島に上陸した源頼朝は武田信義、千葉常胤、葛西清重、足立遠元など多くの武士を味方につけ数万騎の大軍となると鎌倉を本拠地としました。

治承4年(1180)10月に平維盛らとの富士川の戦いで勝利すると金砂城の戦いにも勝利し、反平家の活動は活発なものとなります。

この動乱の中、平清盛が熱病によって亡くなると平氏は平重衡を総大将とするも平家はこれ以上、源氏に攻撃することはなく都へと戻って行きました。

源頼朝は平氏に和睦を勧めた書状を送りましたが、平清盛の後継者である平宗盛がこれを拒否します。

平宗盛は奥州の藤原秀衡が源頼朝の行動の牽制を期待しましたが、寿永元年(1182)に起きた養和の飢饉によって両軍は軍事行動をすることができませんでした。

この年には、正室・北条政子との間に嫡男・源頼家が誕生します。

寿永2年(1183)2月に叔父にあたる源義広が鎌倉に向けて挙兵しました。

叔父・源義広は金砂城の戦いの後、源頼朝とは合流することはなく常陸南部で独自の勢力を伸ばし続けた人物です。

この挙兵に対し、小山朝政らが野木宮合戦で源義広を破ったため、関東において源頼朝に対する敵対勢力はなくなり、関東平定となりました。

 

木曽義仲との戦い

寿永2年(1183)源義仲(木曽義仲)が源頼朝と対立していた源義広を庇護したため、源頼朝と武力衝突寸前となりました。

しかし、義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として迎えたことで、和睦となります。

源義仲は平家一門を都から追いやった人物でした。

大軍を率いて源義仲は京都へ上洛するも、後白河法皇とは対立関係となり、後白河法皇は源義仲に代わって源頼朝に上洛を要請します。

これに対し源義仲は源頼朝の上洛を恐れ、源頼朝の討伐に向かうも粟津の戦いで源頼朝の弟の源範頼と末弟・源義経よって討死となりました。

 

平氏滅亡

源義仲を討った弟・源範頼と末弟・源義経は摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕らえます。

源頼朝は四国に逃れた平氏打倒のため、兵を四国へと派遣しました。

元暦元年(1184)10月頃となると鎌倉では後に鎌倉幕府の政務と財政の役割となる公文所などが開かれ、諸国から有能な官人達たちが、鎌倉に向けて下向するようになったとされています。

文治元年(1185)四国に逃げ込んだ平氏は屋島へと追い込まれ、壇ノ浦の戦いで滅亡を迎えました。

 

源義経の追放

平氏を滅亡に追いやった源頼朝でしたが、弟・源義経が軍を乱し、手柄を独り占めしようとしている。といった知らせが届きます。

このことを知った源頼朝は全軍に弟・源義経の命令に従わないよう指示を出しました。

また弟・源義経の鎌倉入りを許さず、弟・源義経は兄への忠誠心を誓う手紙を出しましたが源頼朝はこれを拒否し、源義経は京都へと帰って行きます。

この兄弟喧嘩に注目したのは後白河法皇で、京都に帰った源義経に後白河法皇は伊予守と命名し、 敵対していた源行家と関係を持たせました。

このことを知った源頼朝は源義経を討伐するため京都に向かいます。

源義経に従うものが少なかったため始めから、この戦いの勝利は目に見えていました。

源義経は九州へと逃げますがその道中船が難破し、源義経は行方をくらませ、奥州の藤原秀衡の庇護を受けることとなします。

 

奥州での戦い

平家滅亡後、討伐の目的となったのは奥州藤原氏でした。

文治2年(1186)4月に源頼朝は藤原秀衡に対して、これまで藤原氏が行っていた朝廷への貢馬、献金を鎌倉経由で行うよう要請します。

これに藤原秀衡は応じることとなりました。

藤原秀衡が亡くなった文治3年(1187)の翌年、源義経が奥州に潜伏しているとの情報が入り、源頼朝は藤原基成、藤原泰衡に源義経の討伐を命じました。

この働きによって源義経は自害し、その後、源頼朝は石那坂の戦いを経て奥州藤原氏を滅亡させることとなります。

 

征夷将軍となり、最期を迎える

その後、源頼朝は奥州での討伐を称えられ建久3年(1192)に後白河法皇が崩御した後鳥羽天皇が即位した際、源頼朝を征夷大将軍に任命しました。

この任命によって一般的に鎌倉幕府が成立したと考えられています。

晩年は地方支配の強化などを行い、建久6年(1195)2月には東大寺大仏殿の再建供養にも出席していたようです。

建久10年(1199)53歳で亡くなりました。

 

死因

建久10年(1199)53歳で源頼朝は亡くなりましたが、死因は相模川で催された橋供養の帰路の際、落馬によって体調を崩したのが原因ではないかとされています。

その他にも、尿崩症、糖尿病、溺死、暗殺などの死因があげられていますが、明確には分かっていません。

源頼朝の遺体は持仏堂に納められました。

この持仏堂は正治2年(1200)から法華堂と呼ばれるようになり、安永8年(1779)薩摩藩主・島津重豪によって石塔が建てられます。

明治に入ると廃仏毀釈によって法華堂は取り壊されましたがしたが明治5年(1872)法華堂跡地に白旗神社が建てられました。

 

子孫、家系図

源頼朝は八重姫という女性を正室に迎えていたとされますが、その女性が亡くなると北条政子を継室に迎えました。

その北条政子との間に大姫、源頼家、三幡、源実朝5人の子供が誕生します。

源頼朝の後を継いだ源頼家は第2代征夷大将軍となりましたが暗殺され、第3代征夷大将軍となった源実朝も暗殺されてしまいます。

また娘の大姫、三幡も若くして亡くなっており、子供もいなかったようです。

北条政子以外にも何人かの側室がいたようで、側室との間に貞暁という息子がいましたが貞暁も21歳で亡くなったため、源頼朝の直系の血筋は途絶えてしまいました。

家系図や史料に載っていなくても、源頼家、源実朝に子供がいた可能性は否定できないので、現在でも子孫が続いている可能性はあります。

 

年表

源頼朝の年表を簡単にご紹介します。

1147年 源頼朝誕生

1158年 皇后宮少進

1159年 平治の乱

1160年 伊豆に配流

1177年 北条政子と結婚

1180年 平氏討伐の討伐命令を受ける、平兼隆を討伐

1181年 平清盛死去

1182年 嫡男・頼家誕生

1183年 源義仲の討伐命令を受ける

1185年 壇ノ浦の戦いで、平家滅亡

1189年 源義仲を討つ、奥州藤原氏滅亡

1192年 征夷大将軍となる

1195年 東大寺大仏殿の供養を行う

1199年 落馬によって体調を壊したため源頼朝死亡 

 

最後に

これまでの貴族中心であった政治を終わらせた源頼朝は、はじめて征夷大将軍となった人物でした。

この鎌倉幕府を基に、室町幕府、江戸幕府と繋がっていくので、幕府の仕組みを作った源頼朝の功績はとても大きいです。

しかし、直系の血筋は残らず源頼朝の子孫が現在、存在しているのかは定かではありません。