三淵藤英は戦国時代、将軍・足利義輝、足利義昭に仕えた人物です。
異母弟・細川藤孝も共に将軍に仕えていましたが、足利義昭が織田信長と対立すると、将軍を裏切り織田信長方につくのでした。
一方で三淵藤英は足利義昭に主従していましたが、足利義昭が織田信長に降伏し室町幕府が滅亡すると、以降は織田信長に仕えるようになります。
しかし、突如、織田信長から自害を命じられその生涯を閉じるのでした。
そんな三淵藤英の生い立ちや経歴、足利義輝や坂本城との関係性について解説いたします。
三淵藤英の生い立ち
三淵藤英がいつ誕生したのかは分かりませんが、室町幕府の幕臣であった三淵晴員の次男として誕生しました。
異母弟に、後に共に室町幕府の幕臣となる細川藤孝がいます。
異母弟・細川藤孝と共に足利義輝に仕える
三淵藤英がどのような青年期を過ごしていたのかはあまり分かっていませんが、天文9年(1540年)頃から室町幕府の奉公衆として活動し始めたとされています。
異母弟の細川藤孝も天文15年(1546年)頃から室町幕府の幕臣として活動を始めました。
永禄の変が起こるまで
永禄8年(1565年)主君である室町幕府第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺されます。(永禄の変)
足利義輝・細川晴元と三好長慶の対立
第13代将軍・足利義輝と管領の細川晴元は当時、京で力を持っていた三好長慶を恐れ坂本城へと逃れていました。
しかし、永禄元年(1558年)近江の守護・六角義賢と手を組んだ足利義輝と細川晴元は三好長慶に反撃を開始しします。
それに対し和睦を結んだ三好長慶は以降、幕府相伴衆として活動を始めました。
その後、三好一族の有力者が相次いで亡くなり、三好長慶も亡くなります。
力を持つ三好氏が亡くなると、将軍・足利義輝は権威回復に務めるのでした。
足利義輝は襲撃され、覚慶(後の足利義昭)は幽閉
将軍の権威回復に危機感を抱いた三好義継(三好長慶の甥)は当時、三好氏の当主となっていましたが、まだ若かったため実権がほとんどありませんでした。
そこで、三好三人衆と呼ばれる三好氏の重臣、三好長逸・三好宗渭・岩成友通、そして三好氏の家臣であった松永久秀が三好義継に代わって、対立する将軍・足利義輝の殺害の計画を企てたのです。
永禄8年(1565年)5月19日、その計画は実行され、京都二条御所にいた将軍・足利義輝は襲撃にあい亡くなります。
また将軍・足利義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)は京都興福寺に幽閉されたのでした。
覚慶(後の足利義昭)の救出
当時、室町幕府の幕臣であった三淵藤英と異母弟・細川藤孝は一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らとともに興福寺に幽閉されていた覚慶(後の足利義昭)を救出します。
その後、近江国の矢島で還俗させ、覚慶は足利義秋と名乗るようになりました。
永禄11年(1568年)4月15日になると足利義秋から足利義昭に名を変え、その後、明智光秀を通して織田信長を頼り、尾張国へと移ります。
足利義昭が将軍となる
織田信長のもとにいた足利義昭ですが、永禄11年(1568年)9月になると織田信長とともに上洛し、10月18日、第15代将軍に就任しました。
足利義昭が将軍に就任すると、三淵藤英は京都の伏見城あたりの警固を行っていたとされ、その後、足利義昭に重用され永禄11年(1568年)に大和守に任命されます。
異母弟・細川藤孝の裏切り
将軍・足利義昭は織田信長に対し、「室町殿御父」などの称号を与えた他、副将軍への推挙を申し入れを行うなど、将軍・足利義昭と織田信長の距離は近いものとなっていました。
しかし、将軍・足利義昭は天下統一を目指す織田信長と次第に対立関係となります。
将軍・足利義昭と織田信長の対立が表面化すると、以前から織田信長と親交があった異母弟の細川藤孝は主君・足利義昭を裏切り、織田信長方につくようになります。
これに対し、兄である三淵藤英は激怒、異母弟・細川藤孝の居城である勝竜寺城の襲撃計画を企てました。
しかし、この計画は失敗に終わります。
織田信長に降伏
元亀4年(1573年)7月3日、将軍・足利義昭が織田信長討伐に向け出陣します。
三淵藤英も挙兵し、伊勢貞興、日野輝資、高倉永相らとともに二条城の守備にあたりました。
しかし、二条城は織田軍に包囲されてしまい7月8日になるとともに守備を行っていた伊勢貞興、日野輝資、高倉永相は三淵藤英1人を残して城から脱出し織田軍に降伏してしまいます。
二条城に1人残された三淵藤英とその軍勢は二条城での籠城を続けましたが、7月10日、柴田勝家に説得され、7月10日、織田軍に降伏しました。
室町幕府の滅亡
織田軍に降伏した三淵藤英は、その後、居城・伏見城へと戻りましたが、将軍・足利義昭が守る槇島城が織田軍の総攻撃にあい、7月18日槇島城は落城となりました。(槇島城の戦い)
織田信長に降伏した将軍・足利義昭は河内国若江城に追放され、室町幕府は滅亡となりました。
織田信長に主従
主君を失った三淵藤英はその後、織田信長に主従するようになり、未だ淀城に籠城していた足利義昭方の岩成友通を攻めるよう命じられます。
これを受け三淵藤英は、異母弟・細川藤孝とともに淀城を攻撃、8月2日に岩成友通を討ち取りました。
坂本城で自害
翌年、突如、織田信長から所領を没収され、織田信長の家臣である明智光秀のもとに預けられることとなります。
そして織田信長から嫡男・秋豪とともに自害することを命じられ、天正2年(1574年)7月6日、坂本城で自害し亡くなりました。
なぜ織田信長が三淵藤英、そして嫡男・秋豪に自害を命じたのかは分かっていません。
異母弟・細川藤孝に預けられた次男・三淵光行
この頃、まだ幼かった三淵藤英の次男・三淵光行は三淵藤英の異母弟である細川藤孝のもとに預けられました。
その後も細川藤孝に仕え、後に、関ヶ原の戦いの一環として行われた田辺城の戦いでは東軍に属し、同じく東軍であった叔父の細川藤孝の危機を救ったとされています。
その活躍を知った徳川家康は三淵光行を高く評価し、旗本として重用しました。
まとめ
三淵藤英の生い立ちや経歴、足利義輝との関係性について解説いたしました。
三淵藤英は異母弟・細川藤孝と共に足利義輝、足利義昭に仕えましたが、異母弟・細川藤孝は将軍を裏切り、対立していた織田信長に仕えるようになります。
三淵藤英は織田信長と対立を続けましたが、室町幕府滅亡後は織田信長に降伏し、織田信長のもとで活動していました。
しかし、突如、自害を命じられその生涯を閉じました。
そんな三淵藤英は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しています。