細川藤孝(幽斎)とは?明智光秀との関係性や家紋、刀について解説!

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細川藤孝(幽斎)は室町幕府の幕臣となった人物です。

足利義輝、足利義昭に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。

現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」では細川藤孝は明智光秀の盟友として描かれていますが、実は本能寺の変の際、細川藤孝は明智光秀に味方することはありませんでした。

そんな細川藤孝の経歴や明智光秀との関係性、家紋や刀について解説いたします。

細川藤孝の生い立ち

天文3年(1534年)4月22日、室町幕府の幕臣であった三淵晴員の次男として細川藤孝は誕生します。

細川藤孝には異母兄・三淵藤英がおり、後に2人は室町幕府の幕臣となります。

 

室町幕府の幕臣となる

天文9年(1540年)、7歳となった細川藤孝は和泉半国の守護・細川元常(父・三淵晴員の兄)の養子となったとされています。

天文15年(1546年)になると、室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受け、藤考と名乗るようになりました。

その後、父・三淵晴員と同じく、室町幕府の幕臣として仕えました。

細川藤孝が幕臣となった頃、すでに異母兄の三淵藤英も幕臣として将軍に仕えていたとされています。

 

永禄の変が起こるまで

永禄8年(1565年)室町幕府幕府第13代将軍・足利義輝が三好三人衆によって討たれます。(永禄の変)

 

永禄の変が起こるまで

応仁元年(1467年)から文明9年(1478年)までの間長く続いた応仁の乱、そして明応2年(1493年)4月、細川政元が起こした将軍の擁廃立事件である明応の政変、この2つの事件は戦国時代の始まりとされ、室町幕府にとって将軍生命を脅かす事件となりました。

2つの事件が起こり、将軍の権威が低下すると、室町幕府第12代将軍・足利義晴は権威回復に務めます。

将軍・足利義晴は権威回復のため、味方であるはずの管領である細川氏とも戦っていました。

管領とは室町幕府における将軍に次ぐ最高の権力を持つ役職で、その役職についていた細川氏とも対立していたのです。

一方で、細川氏の中でも細川晴元と細川高国の間で管領、当主の座を巡って争いが勃発していました。

しかし、三好氏当主・三好元長が細川晴元に力を貸したため、細川晴元が管領となります。

 

三好氏と細川氏の対立

細川晴元を管領にさせた最大の功労者である三好元長でしたが、管領となった細川晴元は次第に三好氏を危惧するようになり、享禄5年(1532年)6月、三好元長は享禄・天文の乱において自害に追い込まれることとなりました。

自害に追い込まれた三好元長の子・三好長慶は将軍家、細川晴元と対立するようになり、天文18年(1549年)、三好長慶は細川氏の側近であった三好政長を討ちます。

細川晴元は三好長慶を恐れるようになり、将軍・足利義輝を連れ坂本城へと逃げたのでした。

この頃から京都では三好氏による政権が成立しましたが、永禄元年(1558年)近江の守護・六角義賢と手を組んだ足利義輝の反撃を受け和睦、以降、三好長慶は幕府相伴衆となったのです。

その後、三好長慶の一族が相次いで亡くなり、永禄7年(1564年)には長慶自身も亡くなります。

 

足利義輝の殺害

三好氏の力が弱まりつつあるころ、将軍・足利義輝は権威回復を行うようになります。

将軍の権威が回復されることに危機感を抱いた三好氏でしたが、当時、当主となっていたのは長慶の甥・三好義継でした。

しかし、まだ若い三好義継は実権がほとんどなかったため、三好三人衆と呼ばれる三好氏の重臣、三好長逸・三好宗渭・岩成友通と三好氏の家臣であった松永久秀は三好義継に代わって将軍の排除、つまり将軍殺害の計画をたてていました。

そして永禄8年(1565年)5月19日、その計画は実行され、室町幕府第13代将軍・足利義輝(足利義晴の嫡男)は襲撃、殺害されてしまいます。

これは永禄の変と呼ばれ、将軍の弟である覚慶(後の足利義昭)も興福寺に幽閉されてしまうのでした。

 

覚慶(後の足利義昭)を救出

室町幕府の幕臣であった細川藤孝はこれを受け、異母兄・三淵藤英らとともに、覚慶(後の足利義昭)を救出します。

その後、近江国の六角義賢のもとで保護された覚慶は足利将軍家の当主になることを宣言し、永禄9年(1566年)2月17日、還俗し足利義秋と名乗るようになりました。

永禄11年(1568年)4月15日になると足利義秋から足利義昭に名を変え、その後、明智光秀を通して織田信長を頼り、尾張国へと移りました。

 

足利義昭が第15代将軍に

細川藤孝も足利義昭とともに尾張国へと移りましたが、永禄11年(1568年)9月になると京へと戻ることとなります。

この際、織田信長軍と浅井長政軍に護衛されながら入京を果たしました。

同年10月18日になると、足利義昭は第15代将軍に就任します。

以降、細川藤孝は大和国や摂津国で戦を繰り返すようになります。

足利義昭と織田信長の対立

将軍に就任した足利義昭は新将軍として幕府の再興に力をいれていました。

また将軍就任に協力した織田信長に対し「室町殿御父」などの称号を与えた他、副将軍への推挙を申し入れるなど、織田信長との関係性は強いものとなっていました。

しかし、幕府の再興を目指す足利義昭と、天下統一を目指す織田信長は考えの不一致から次第に関係悪化となり、ついには対立関係となります。

主君・足利義昭と織田信長の対立が表面化すると、細川藤孝は元亀4年(1573年)3月、織田信長方につくようになります。

元亀4年(1573年)3月よりも前から、細川藤孝は足利義昭方にいながら織田信長の家臣のような動きを見せていたとされています。

足利義昭はその後、織田信長によって攻められ、京都から追放されるのでした。

 

織田信長の家臣として

細川藤孝は足利義昭が追放された後、実質天下人となっていた織田信長の家臣となり、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐などの戦いで活躍するようになります。

また明智光秀の与力として天正5年(1577年)、織田信長に謀反を起こした松永久秀を討伐(信貴山城の戦い)するなどの活躍を見せました。

 

明智光秀と親戚関係に

天正6年(1578年)、織田信長に進められ嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)が結婚します。

これを機に明智光秀との関係性は強くなり、その後、明智光秀の協力を得ながら丹後南部を平定し、宮津城を居城としました。

 

本能寺の変

天正10年(1582年)明智光秀が主君・織田信長に対し謀反を起こします。(本能寺の変)

細川藤孝は上役でもあり、親戚でもある明智光秀から出陣の要請を幾度も受けていましたが、その要請を断り、出家し幽斎玄旨と名乗り始めました。

明智光秀は関係の深かった筒井順慶にも出陣を要請していましたが、これも断られ、山崎の戦いで亡くなりました。

 

豊臣秀吉の家臣として

その後、豊臣秀吉が天下人となると、細川藤孝は豊臣秀吉に重用されるようになり天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも出陣します。

また文化人としても茶会や歌会に参加していたとされ、千利休の高弟としても活躍しました。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が亡くなります。

 

徳川家康の家臣として

豊臣秀吉が亡くなる以前から徳川家康と繋がっていた細川藤孝は豊臣秀吉亡き後、天下人を決める戦いである関ヶ原の戦いでは徳川家康方(東軍)につき、慶長5年(1600年)6月、三男・細川幸隆とともに丹後田辺城を守ります。

翌日の7月、西軍の石田三成が徳川家康討伐に向け兵を出陣させます。

大阪にいた長男・細川忠興の妻・細川ガラシャは石田三成の兵に包囲されると、屋敷に火を放ち自害するのでした。

 

田辺城の戦い

丹後田辺城を守る細川藤孝と三男・細川幸隆らは1万5000人の石田軍に包囲されますが、細川藤孝の防衛はそう簡単に崩れることはなく、長期戦となりました。(田辺城の戦い)

その間、細川藤孝の弟子である八条宮智仁親王は石田三成との講和を働きかけましたが、細川藤孝はこれを拒否し、籠城戦を継続しました。

しかし八条宮智仁親王はなんとしてでも講和を実現させようと、兄・後陽成天皇から講和の勅命を出させます。

細川藤孝らの長期防衛戦である田辺城の戦いは2ヶ月に及んだとされ、講和を結んだ細川藤孝は9月18日に城を明け渡し、その後敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。

講和が結ばれたのは関ヶ原の戦い本戦が行われる2日前であったとされています。

一方で、長男・細川忠興は前線で石田三成軍と戦い、関ヶ原の戦い後、徳川家康から豊前小倉藩39万9000石の大封を与えられました。

 

細川藤孝の最期

関ヶ原の戦い後、細川忠興は京都で悠々自適な生活を送っていたとされ、慶長15年(1610年)8月20日、77歳で亡くなりました。

 

家紋

細川藤孝の家紋は丸に二引き両紋とよばれるものです。

 

刀剣術

細川藤孝は刀剣術などの武道全般の他、和歌や茶道、蹴鞠などの文芸、また囲碁や料理などなんでも上手くこなすことができ、教養人であったことが知られています。

 

塚原卜伝から刀剣術を学ぶ

刀剣術は塚原卜伝から学んだとされています。

塚原卜伝とは戦国時代の剣士で実父・覚賢から鹿島古流を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流を教えられ、武者修行に出ては己の剣術を磨きました。

塚原卜伝から刀剣術を学んだ者には細川藤孝の他、細川藤孝の主君であった足利義輝、足利義昭や武田家の軍師・山本勘助などがいました。

 

まとめ

細川藤孝は室町幕府の幕臣となった人物でした。

しかし、主君・足利義昭が織田信長と対立するようになると織田信長方につきます。

その後、織田信長が本能寺の変で討たれると豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。

細川藤孝は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀の盟友と登場しています。