姉川の戦いとは戦国時代、織田信長率いる織田・徳川連合軍と、浅井長政率いる浅井・朝倉連合軍による合戦です。
越前の朝倉義景が織田信長からの上洛の要求を断ったため、元亀元年(1570年)4月、織田信長は朝倉氏に侵攻を開始しました。
もともと朝倉氏と同盟関係であった浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻に迎えていました。
しかし織田氏と朝倉氏が対立関係となると、織田信長との同盟よりも盟友・朝倉義景との絆を優先し、織田氏の背後から襲撃を行います。
そんな織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の合戦である姉川の戦いが起きた経緯や場所、浅井長政とお市(織田信長の妹)の関係性や逸話「袋の鼠」について解説していきます。
姉川の戦いが起こった経緯
姉川の戦いが勃発したのは元亀元年(1570年)6月28日のことです。
姉川の戦いが勃発する、約10年前の永禄3年(1560年)5月19日、尾張の織田信長は駿河の今川義元を桶狭間の戦いで突破、斎藤龍興から美濃を奪還し、上洛を目的に近江国を侵攻していました。
当時、北近江を治めていたのは戦国大名・浅井長政という人物で、織田信長は近江国を侵攻する先立ち、自身の妹であるお市を北近江を治める浅井長政の妻として送り込みます。
こうして織田信長の妹・お市が浅井長政の妻となることで、織田氏と浅井氏の間には縁戚関係という強い結びつきが誕生しました。
北近江を治める浅井氏と強い結びつきを得た織田信長は浅井氏からの援軍とともに、南近江の有力大名・六角義賢とその息子・義治を破ります。(観音寺城の戦い)
こうして近江国を突破した織田信長は足利義昭を奉じ上洛を果たすこととなりました。
織田信長と朝倉義景の対立
上洛を果たした織田信長は足利義昭を将軍とし、その後、織田信長は各大名に対し上洛を要請しました。
しかし、越前の朝倉義景は織田氏に従うことを嫌がり、織田信長の上洛の要請を拒否します。
これに対し織田信長はもともと対立関係でもあり、自身に従わない朝倉義景を討伐するため元亀元年(1570年)4月、越前へと侵攻を開始しました。
浅井長政が織田信長を裏切り、盟友・朝倉義景に味方する
織田信長が朝倉氏を侵攻したことに対し、お市(織田信長の妹)の夫である浅井長政は不満を抱いていました。
もともと浅井長政と朝倉義景は盟友でもあったのです。
そのため、盟友である朝倉義景は浅井長政が織田信長と同盟を結ぶことを以前から不満に思っていました。
それを知った織田信長は浅井長政と同盟を結ぶ際、浅井長政の盟友である朝倉義景は攻めないといった「朝倉への不戦の誓い」を結び、同盟関係を持ったのでした。
しかし、この「朝倉への不戦の誓い」を破り越前国の朝倉方の城を攻め始めた織田信長に対し、浅井長政は不満を抱き、遂には縁戚関係でもあり同盟関係でもある織田信長に謀反を起こし、朝倉義景に味方することとなります。
織田信長の撤退
織田信長から離反した浅井長政は朝倉氏を侵攻していた織田軍の背後から襲撃を仕掛けると、優位に立っていた織田軍は朝倉、浅井に挟撃され危機に陥ることとなります。
そのため織田軍は一時撤退を余儀なくされ、織田信長の家臣たちはを金ヶ崎の戦い経て退却することとなりました。
朝倉・浅井軍、南近江まで侵攻
織田軍が撤退すると、朝倉義景は敦賀に滞陣し、浅井長政と連絡を取り合ったとされています。
元亀元年(1570年)5月11日、朝倉氏は朝倉景鏡(朝倉氏の一族)を総大将とした大軍を近江へと侵攻させ、朝倉・浅井軍は南近江まで侵攻しました。
六角義賢と連帯し、織田信長に挟撃を仕掛けましたが失敗に終わり、5月21日には織田信長は岐阜へと帰国し、6月4日には六角軍が野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れるという結果に終わります。
徳川家康が織田軍に合流
6月21日、織田信長は虎御前山に布陣し、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに浅井氏の本拠地・小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き討ちさせました。
6月24日になると織田信長は浅井氏の城であった横山城を包囲し、織田信長自身は竜ヶ鼻に布陣します。
この際、徳川家康が織田軍に合流したとされ、また浅井軍にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着しました。
朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣するとこれによって浅井・朝倉連合軍は合計13,000の兵力となります。
対して織田軍も互角の兵力であったとされています。
合戦が行われた場所と結果
6月27日、浅井・朝倉軍は陣払いを行い兵を引きましたが28日未明、現在の滋賀県長浜市野村町の場所にある姉川を目の前に軍を2つ(野村・三田村)に分け布陣しました。
同日午前6時頃に合戦が開始されたとされ、両者は激戦を繰り広げることとなりましたが、徳川家康の家臣・榊原康政から側面を攻められる形となり、陣は総崩れとなります。
こうして、朝倉軍が敗走すると、続いて浅井軍が敗走となり結果、織田・徳川連合軍が1,100余りを討ち取り勝利となりました。
合戦が行われた場所付近では「血原」や「血川」という地名が付けられており、悲惨な戦いであったことが分かります。
姉川の戦いの後
織田信長は小谷城付近の町に火を付けましたが、一気に小谷城を落とすことは容易ではないと考え、横山城下へ後退しました。
その後、まもなくして横山城は降伏し、織田信長は後の豊臣秀吉である木下秀吉を横山城の城番に任命しました。
浅井長政のその後
姉川の戦いから敗走した浅井長政はその後も織田信長に対抗していました。
しかし、天正元年(1573年)8月8日から始まった小谷城の戦いで自害し、29歳という若さで亡くなりました。
浅井長政とお市(織田信長の妹)の関係性
浅井長政とお市(織田信長の妹)は永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々に婚姻関係を結んだとされています。
この2人の婚姻によって浅井家と織田家は同盟を結ぶこととなりました。
政略結婚ではあったものの2人の夫婦仲は良かったとされ、浅井三姉妹と呼ばれる3人の娘に恵まれます。
元亀元年(1570年)お市の兄・織田信長が浅井長政の盟友である朝倉義景を侵攻すると、浅井長政は織田氏との同盟よりも盟友との関係を優先し、これによって浅井家と織田家の友好関係は断絶となります。
しかし、そのような状況でも夫婦仲は絶えず良好でした。
その後、姉川の戦いで浅井長政は敗走となり、その後、天正元年(1573年)に小谷城が陥没となると浅井長政は父・久政とともに自害し亡くなります。
夫・浅井長政を失ったお市はその後、3人の娘(浅井三姉妹)を連れ兄・織田信長に引き取られました。
後に浅井三姉妹のうちの長女・茶々は豊臣秀吉の側室となります。
逸話「袋の鼠」
『朝倉公記』によると、浅井長政の妻・お市は金ヶ崎の戦いの際、兄・織田信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞として織田信長の陣に送り込んだとされています。
金ヶ崎の戦いとは元亀元年(1570年)に起きた浅井・朝倉軍と織田・徳川軍との争いでその後の姉川の戦いに繋がる戦でもあります。
この戦いで初めて浅井長政は織田信長を裏切り、盟友である朝倉義景に味方しました。
その際、浅井長政の妻・お市は、まだ浅井長政の裏切りを知らない兄・織田信長に裏切りを知らせるため、袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞として送り込みます。
袋の両端を縛った「小豆の袋」を受け取った織田信長は、小豆を織田軍、袋を浅井・朝倉軍と解釈し、織田軍は浅井・朝倉軍に包囲されている、夫・浅井長政が裏切ったということ知り、すぐさま撤退を決意しました。
この撤退によって織田・徳川軍は1300余の損害を受けたものの、合戦に発展することはありませんでした。
後世の創作であった
浅井長政の妻・お市が、兄・織田信長に「小豆の袋」を送り込んだことで、浅井長政が裏切った、織田軍は包囲されていると知った織田信長は撤退することができました。
この逸話は「袋の鼠」と呼ばれていますが、実は後世の創作とされています。