平安時代とは?食事・文化・服装などの庶民の暮らし、年表などを解説!  

※当サイトは広告を含む場合がございます

平安時代と言えば、貴族を中心に語られることがほとんどですが、庶民の暮らしにも焦点を当てて紹介します。

平安時代とはどのような時代で、庶民はどんな食事をとり、どのように生活をしていたのでしょうか。わかりやすく解説します。

平安時代とは

桓武天皇が794年に平安京に都を移し、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの約400年間を指します。

 

平安前期、平安京への遷都と政治改革

桓武天皇は、即位後、平城京からいったん長岡京に都を移したものの、災害や家臣の死が相次ぎ、改めて794年に平安京に都を移しました。

桓武天皇は、律令政治を立てなおそうと、自ら精力的に政治に取り組み、親政を行います。

まず、律令改革のために、令を補う令外官を設置しました。これは、地方政治を監督する勘解由使、平安京内の治安維持のための検非違使です。

桓武天皇に続く嵯峨天皇も810年の薬子の変をきっかけに蔵人所を作りました。蔵人所とは、天皇のそば近くに仕え、機密文書を管理する部署です。

次に農民の負担軽減のために兵役を廃止しました。当時の農民は食べるのにも事欠くほど搾取されていたのです。

そのかわり郡司(地方公務員)の子弟や農民のうち、特に武芸に秀でた人材を集めて軍団を作る健児の制を始めますが、この制度は残念ながら機能せず、朝廷の軍事力を失う結果になります。

ほかには、律令支配を拡大しようと、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して3回にわたり蝦夷に攻め込み、ついには平定しました。

仏教に関しては、政治に口出しをするほど権力を持った奈良の仏教体制を整えようと、空海・最澄を保護して、新しく真言宗・天台宗を導入しました。

 

 

平安中期、藤原氏による摂関政治

その後、9世紀には藤原氏による摂関政治が始まります。

藤原良房が9歳の清和天皇の摂政を行ったのが最初で、その良房の養子・藤原基経は、高齢の光孝天皇の政治を代行する摂関政治を行いました。

その後、藤原氏は摂政・関白の座を独占しようと、次々と他氏を排斥し、最終的に安和の変で源高明を太宰府に流して政権を掌握します。

もはや藤原氏の出身でなければ出世はできないという事態となり、藤原氏は、藤原道長のころに全盛期を迎えます。

道長は、娘を4人も天皇に嫁がせ、3人の天皇の外祖父(母方の祖父)となって権力を一手に掌握しました。

その後、頼道が道長に代わって摂関となりますが、入内させた娘に男児が恵まれず、藤原氏と血縁関係のない天皇が即位することになり、勢力が衰えました。

 

平安後期、院による政治と武士の台頭

1086年、白河天皇は、自分の幼い子どもを天皇にし、自身は上皇となって院政を行いました。次の皇位継承者だった異母弟が天皇になるのを阻止するためです。

これで天皇を頂点とした律令政治が崩れ、天皇以外の存在が力を持ち始め、権力が分散し始めます。

さらに上皇はそれまでの慣例にとらわれず、気に入った人物を院近臣として身近に置くと同時に、直属の武力として北面の武士を設置し、源氏や平氏を登用しました。これが武士の台頭のきっかけになります。

また、上皇、天皇家、有力な寺社・貴族・武士が、農村を含む大土地(荘園)を多数所有、それぞれが資金源を持つことになりました。

1156年の崇徳上皇と後白河天皇の権力争い(保元の乱)では、武士が味方に付いて戦い、公家の争いを武家が武力をもって決着させます。

乱に勝利した後白河天皇は譲位して上皇となりますが、院近臣たちのなかでの争いと武士団内での争いが結びついて、平治の乱が起こりました。

平治の乱の原因については諸説ありますが、恩賞に関して格差があったため、源義朝と平清盛で激しい争いになったと言われています。

結果は平清盛が勝利し、源義朝は殺害され、息子・源頼朝は島流しとなりました。

勝者・平清盛は、後白河上皇に信任を得て、1167年には実質的な最高権力者・太政大臣となり、公家に代わって武士が政治の主導を握り、日本初の武家政権が誕生します。その後、平氏は「平氏でなければ人ではない」と言うほど栄華を極めました。

国風文化

奈良時代に引き続き、唐の文化に影響を受けていましたが、894年に遣唐使が廃止されて以降、貴族を中心に国風文化という日本独自の文化が花開きました。

中国風の服装に代わり、十二単や束帯を着、寝殿造りなどの和様建築が作られたほか、漢字からカタカナ、平仮名が生まれました。

貴族の間では、和歌が盛んにつくられ、宮中の女性たちによって日記、物語文学が書かれます。

貴族たちは和歌で気持ちを表明したり、さかんに文をやり取りしましたが、身分によって教養にもかなりの落差があり、僧侶でもなければ、庶民は読み書きができませんでした。

宗教では、天台宗・真言宗が伝わったほか、各地での大地震、干ばつ、疫病など、自然災害の頻発により、終末思想が流行し、貴賤を問わず仏教が浸透しました。

 

庶民たちの食事

貴族たちのぜいたくな暮らしは庶民の搾取の上に成り立っていたので、庶民の食事はかなりの粗食で、野菜中心の食事だったと言われています。

米は、自分たちで食べることはほとんどなく、ムギ・ヒエ・アワなどの雑穀のほか豆やイモを主食として食べ、副食は魚や肉も食べられていましたが、野菜が多かったようです。

農民の食事は雑穀と菜っ葉、塩という献立で、平安京内の庶民は、たとえば雑穀の主食、魚の干物、野菜のおかずといった献立が想像できます。

 

服装

平安時代といえば、貴族の十二単や束帯が有名ですが、庶民は、自分で働く必要があったので、貴族に比べて簡易的な衣装を着用していました。

女性は小袖というほとんど筒状の袖の着物に、細い帯を締め、スカートのような短い裳を巻いていました。

一方、男性は、直垂(ひたたれ)に括袴(くくりばかま)という組み合わせ。これは武士の正装の原型になっていきます。武士のような上下別の着物で、袴を足首でくくっていました。

 

庶民の暮らし

住居

都の庶民は、板で屋根を葺いて石を載せた、板敷きの家屋に住んでいました。

よく言われる、この時代に竪穴式住居に住んでいたのは地方の人々です。竪穴式住居とは地面を低く掘り、柱を立てて屋根をかけた半地下の建物です。

ただ、平安後期になると、地方でも掘立柱建物という地面に穴を掘り、そこに直接柱を固定して屋根を葺いた建物に住むようになります。こうした建て方は現在でも簡易的な家屋に見られます。

 

入浴

蒸し風呂に入っていたと言われていますが、これは貴族や僧侶に限られ、庶民はお湯をたらいに入れて行水をする程度だったようです。

 

葬儀

貴族では火葬が一般的で葬儀も行いましたが、庶民は費用を用意することだができないので風葬を行いました。つまり街外れに放置して土に還しました。

地震、火事などの災害、疱瘡などの疫病の流行で死者が多数出たときは、処理が追い付かず、街中に死体が放置されました。

 

結婚

庶民とはいえ、現在の感覚とは異なっていたようです。男性が女性のもとに通う妻問婚でした。

しかし経済的なこともあり、貴族とは異なり一夫多妻ではありませんでした。

 

年表

最後に、平安時代の年表を下に記します。

794年 桓武天皇、平安京に遷都。

858年 藤原良房が初めて摂政になる。

894年 遣唐使の廃止。

1016年 藤原道長、摂政になる。

1086年 白河上皇の院政開始

1156年 保元の乱

1160年 平治の乱

1167年 平清盛、太政大臣になる。

1192年 源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府が開かれる。