幕末は桂小五郎(かつらこごろう)として長州藩きっての外交官・政務官として、維新後は政府の外務、内務両面を執行する大物政治家として名を馳せた木戸孝允。
派手な斬りあいも戦闘への参加もなく、地味な事務職的なイメージの強い人物ですが、大久保利通、西郷隆盛とならんで維新の三傑と評されています。
木戸孝允こと桂小五郎が歩んだ幕末から明治維新の道のりとはどのようなものだったのでしょうか?
木戸孝允の死因、子孫、イケメン説などを含め、彼の生まれた長門国萩城下(現在の山口県萩市)から見ていきましょう。
木戸孝允(桂小五郎)の生い立ち
天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景(わだまさかげ)の長男として生まれ、7歳の時に武家の桂家の養子となったためここで武士・桂小五郎が誕生します。
有名な剣豪になる
身体は病弱でしたが、川を往来する舟を船頭ごとひっくり返したりと悪戯好きな面を持ち、勉学においては藩主・毛利敬親により「孟子」の解釈等で褒美を授かるほどの秀才でした。
13歳の時に柳生新陰流の道場に入門、16歳で吉田松陰の門下で山鹿流兵学を学び「事をなすの才あり」と評されます。
剣術の腕前が認められ江戸の練兵館(神道無念流)に留学後、わずか一年で免許皆伝、塾頭となり、江戸だけでなく諸藩でも有名な剣豪となります。
ペリーの黒船来航で学問に励む
この江戸留学中にペリーの黒船来航があり、海外の学問を学ぶ必要性を痛感した桂小五郎は、幕臣・江川英龍(えがわひでたつ)から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を、同じく幕臣の中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)から造船術、幕府海防掛本多越中守家臣・高崎伝蔵(たかさきでんぞう)からはスクネール式洋式帆船造船術、同僚である長州藩士・手塚律蔵(てづかりつぞう)から英語を学び、常に最先端の学問を貪欲に習得していきました。
倒幕のため、積極的に人材登用
長州藩政の中枢で頭角を現した桂小五郎は、周布政之助(すふまさのすけ)・久坂玄瑞(くさかげんずい)らと藩論を統一し攘夷、倒幕へと進んでいきます。
桂小五郎を代表とする開明派が藩政を握ると伊藤博文や井上馨ら5名をイギリスへ留学に出し、医師ながら語学に優れた村田蔵六(むらたぞうろく、後の大村益次郎)を藩の中枢へ引き上げたりと、先を見据えた人材登用を行いました。
運良く池田屋事件を逃れる
この後、桂小五郎は藩の命令で江戸から京都へ移動となりますが、すぐに八月十八日の政変で長州藩は京都から追放処分となり、桂小五郎は変名を使い長州贔屓の商人や町衆に匿われながら京都で情報収集に当たります。
京都に残った攘夷浪士達の会合が京都三条木屋町の池田屋で行われるとき、予定時間よりも早く着いた桂小五郎は時間潰しに対馬藩邸に大島友之允(おおしまとものじょう)を訪ね、その談話中に新撰組の探索が池田屋に入り、間一髪で難を逃れます。(池田屋事件)
禁門の変で窮地に
長州藩は京都での劣勢を挽回しようと軍事行動を起こし京都を包囲、長州の権勢回復を図ろうとしますが会津や薩摩、一橋慶喜によって阻まれ、禁門の変で多くの兵を失い、完全に京都への足掛かりを失ってしまいます。(禁門の変)
桂小五郎は一貫して武力蜂起には反対でしたが、この戦乱に巻き込まれ芸妓幾松(いくまつ・後の木戸松子)や大島友之允の支援を受けて京都を脱出、但馬国の出石で隠忍自重の生活を送ります。
薩長同盟で倒幕へ
禁門の変で朝敵となった長州藩を徳川幕府は攻撃するために征伐軍を編成します。
これに対応するため長州藩でも幕府恭順の立場をとる俗論派が政権を握り、桂小五郎や高杉晋作が属する正義派は粛清されそうになります。
しかし、高杉晋作の軍事クーデターにより正義派が政権を奪取し、潜伏先を知った高杉晋作や大村益次郎によって長州の政治指導者として迎えられた桂小五郎は、外交、政務全般を担当することになり、坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を成立させ、藩政改革と軍制改革を一手に担うこととなりました。
明治新政府での活躍
明治新政府誕生後、木戸孝允と名を替えた桂小五郎は、岩倉具視の右腕として参与、参議、文部卿の要職を歴任、新政府の主要政策である版籍奉還・廃藩置県、四民平等などの実施に尽力します。
また、岩倉使節団では全権副使として欧米を視察、内治優先の必要性を感じて憲法の制定、二院制議会の設置、教育の充実を目指そうとしました。
木戸孝允の最期
新政府でも活躍していた木戸孝允でしたが、原因不明の持病(脳内発作とも言われる)が再発したため政務の執行が難しくなります。
その上、この時期に各地で不平士族の反乱が起き、木戸孝允の出身である長州藩があった山口県でも萩の乱が発生しました。
木戸孝允は即座にこれを鎮圧し首謀者である前原一誠を斬首に処しますが、翌年1877年に西郷隆盛が西南戦争を起こしたときには、病状が相当に悪化しており、西郷討伐軍の出陣に伴う明治天皇の京都出張の最中に倒れてしまいます。
危篤状態の中、大久保利通の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を最後に波乱に満ちた木戸孝允の生涯は満43歳で閉じたのでした。
木戸孝允の死因
木戸孝允の死因についての正確な史料は残っておらず、あくまでも状況判断と伝聞に基づく推測になっています。
酒好きだったというよりも酒豪であった木戸孝允は肝臓が腫れていたそうです。ここから推測されるのはアルコール性肝硬変です。
また明治政府の政策実行の激務による蓄積疲労、またそこから来るストレスによる内蔵疾患なども考えられ、慢性的な歯痛、腹痛、胸痛が続いていたとも伝えられており、死因としては肝硬変または多臓器不全等が考えられています。
木戸孝允はイケメン?
写真や肖像画が残る木戸孝允がイケメンであったかどうかはそれぞれの好みによって判断が別れるようです。
しかし、主役として描かれることの少ない木戸孝允をドラマや映画で演じた俳優は、玉山鉄二、東山紀之、及川光博、野村宏伸、谷原章介などのいわゆる王子様顔の俳優がキャスティングされています。
主役をイケメン俳優が演じることは往々にあることですが、脇役を常にイケメン俳優が演じるのはやはり木戸孝允にイケメンのイメージがあるためなのではないでしょうか。
木戸孝允の子孫
木戸孝允の実子は明治2年生まれの好子がいますが、子供はなく木戸孝允直系は絶えています。
養子である忠太郎は満鉄地質研究所所長を、養子であった征二郎が迎えた養子の孝正は東宮侍従長、幸一は内大臣をそれぞれ勤め、幸一の弟である和田小六とその息子・昭允は東京大学の教授を勤め、木戸孝允が目指した教育の充実を子孫の代で果たしています。
また遺族は華族令発布当初から侯爵家に叙されていましたが、この待遇を受けたのは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族と木戸孝允の遺族の二家のみでした。
木戸孝允の人間性
長州出身の海軍中将・有地品之允(ありちしなのじょう)や米沢出身の内務大臣、農務大臣を歴任した平田東助(ひらたとうすけ)らは、木戸孝允が後輩や書生などを格式にこだわらず家に呼んで食事を振る舞ったり、突然に家を訪ねたりして彼らを困惑させたとの話を残しており、気さくで非常に面倒見の良い人物であったことが伺えます。
また大隈重信は真面目で誠実な人、師匠に当たる吉田松陰は厚情の人物と評しています。人間として好人物であった桂小五郎は幕末の動乱をその胆力と知恵で何度も訪れた死地を潜り抜け、木戸孝允としては明治政府で類いまれなる知恵と根気で幾多の難題を解決していきました。
桂小五郎こと木戸孝允がどれほどの政治家であったかは前出の大隈重信の言葉が全てを表しています。その言葉をもって木戸孝允のまとめとしたいと思います。
我輩が敬服すべき政治家は一に木戸公、二に大久保公で、何れも日本に於ける偉大な人傑、否な日本のみならず、世界的大偉人として、尊敬すべき人物である。