慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令として新政権の樹立、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表されました。
その同日に京都御所内の小御所という場所で、新たな三職と参与などで行われた新政府最初の会議、それが小御所会議です。
ただし新政府の最初の会議というよりも、御所の9つの門を閉ざし長州藩を御所から追放した八月十八日の政変を彷彿とさせるような倒幕派によって仕組まれたクーデターでした。
この小御所会議とはどのような経緯と背景で行われることになり、また内容や参加メンバーの構成はどうなっているのか、小御所会議が行われたその後の国政などにどう影響していったのかなどわかりやすく解説していきます。
小御所会議の背景
王政復古の大号令と小御所会議が行われる以前の時代背景は、八月十八日の政変、禁門の変などを経て、長州藩が京から締め出されて以降、公武合体派が勢力を盛り返していました。
しかし、公武合体派の足並みは全く揃わなかったのです。
四侯会議を開いても以前からそりの合わない徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の島津久光(しまずひさみつ)への排斥があり機能しなくなっていきました。
結局、島津久光は薩摩へ引き上げてしまい、薩摩藩は公武合体派から武力倒幕派へと大きく舵を切ることになります。
大政奉還で武力衝突回避
武力倒幕の流れを止め、平和的に解決する方法を模索していた四侯会議のメンバーの一人である土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)は、参政の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から提案された大政奉還論(坂本龍馬(さかもとりょうま)が起案し後藤象二郎に伝えていた。)が妙案と考え、土佐藩は単独で徳川慶喜に大政奉還を上奏させることに成功、討幕派の思いとは裏腹に平和的に政権交代が実現してしまうのです。
王政復古の大号令と小御所会議へ
しかし、政権を返上しても徳川慶喜は辞職せず、幕府に替わる機関や会議なども行われない状況が続いていました。
幕府存続派の大政再委任の要求が出るまでに、何が何でも徳川慶喜を将軍職から降ろし武力行使をしても徳川幕府体制を壊したい討幕派は、明治天皇を担ぎ出すことで、王政復古の大号令とその後の政権体制の確立を明確にするという強硬策が必須でした。
これらの流れと時代背景が、王政復古の大号令と小御所会議へと続いていきます。
小御所会議のメンバー
天皇
明治天皇(めいじてんのう)
総裁
皇族・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)
議定
- 皇族・小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)・仁和寺宮純仁親王と同一人物
- 皇族・山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)
- 公卿・中山忠能(なかやまただやす)
- 公卿・正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)
- 公卿・中御門経之(なかどみかどつねゆき)
- 元尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)
- 前越前藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)
- 芸州藩世子・浅野 長勲(あさの ながこと)
- 前土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)
- 薩摩藩主・島津 忠義(しまづ ただよし)
参与
- 公卿・大原重徳(おおはらしげとみ)
- 公卿・万里小路博房(までのこうじひろふさ)
- 公卿・岩倉具視(いわくらともみ)
- 公卿・長谷信篤(ながたにのぶあつ)
- 公卿・橋本実梁(はしもとさねなや)
特に出席を許され末席に詰めていた諸藩の藩士
尾張藩士
丹羽淳太郎、田中不二麿(たなかふじまろ)
越前藩士
中根雪江(なかねゆきえ)、酒井十之丞(さかいじゅうのじょう)
芸州藩士
辻 維岳(つじ いがく)、桜井与四郎(さくらいよしろう)
土佐藩士
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、神山 郡廉(こうやま くにきよ)
薩摩藩士
岩下方平(いわしたみちひら)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)
小御所会議の内容
会議は紛糾を窮める
この会議での中心の議題は、徳川慶喜の辞官納地とその後の処遇でした。
徳川慶喜が内大臣を辞して徳川家の400万石の領地を朝廷に返納するという内容です。
しかし辞官納地に関しては討幕派の強硬議題なので、徳川幕府大名である山内容堂や松平春嶽は、そもそも大政奉還を上奏し平和裏に事を進め今後も活躍するであろうはずの徳川慶喜をこの場所に呼んでいないことに憤慨し、辞官納地に強く反対。
大激論が続き停滞を余儀なくされたので、中山忠能が一旦休憩を宣言することとなりました。
会議においての西郷隆盛について
紛糾を続けるも、結局は徳川慶喜の辞官納地が決議されました。
しかし、紛糾していたのに休憩を挟んでスムーズに決議されたのはなぜでしょう。
この会議はクーデーターなので、策を練った討幕派にしてみたら是が非でも押し通さなくてはいけないものでした。
この停滞した空気を変えたのが西郷隆盛の一言だったと言います。
末席に詰めていた西郷隆盛は「短刀一本あれば片付く」と助言し、それを伝え聴いた岩倉具視は「我一呼吸の間に決せん」と息巻いてやる気を出したというのです。
それが後藤象二郎に伝わり藩主の身の危険を感じ、山内容堂に対して今この時点ではこれ以上抵抗するのは不利だと諌め、鉾を収めさせたと言います。
実際、大久保利通の日記には、「後藤中を取りて論ず。」としか書かれていないので、この西郷隆盛の一言が事実かどうか定かではありませんが、逸話として語り継がれているのは確かなので、当時の西郷隆盛の実力と薩摩藩の影響力がどれほどのものだったのかが計り知れるのではないでしょうか。
小御所会議のその後
西郷隆盛の奇策
小御所会議の結果は、徳川慶勝と松平春嶽の二人が二条城を訪れ、王政復古、将軍職辞任並びに辞官納地の報告として徳川慶喜に伝えました。
徳川慶喜はとにかく平和裏に事を進めたかったようで、官位を一つ下げ、領地の一部返納も視野に入れて討幕派の挑発に乗らない様注意を払いながら、周りの幕臣が落ち着いた頃、時期を待って願いでることにします。
しかし、時間が経てば立つほどに徳川慶喜同情論が出て、立場が悪くなることを討幕派は肌で感じ、できることならば勢いのまま武力衝突で推し進めたいと考えました。
事態は西郷隆盛の江戸奇襲という奇策で大きく動きだします。
西郷隆盛は自らの配下に命じ浪士らを雇い江戸市中で放火・暴行・略奪のかぎりを尽くす幕府挑発に乗りだします。
幕臣の妄動を止めることができず鳥羽伏見の戦いへ
これに激怒した江戸警備・庄内藩は西郷隆盛の罠にまんまとはまり、薩摩藩および佐土原藩邸を焼き討ちにしてしまうのです。
この報を聞いた、徳川慶喜と共に大阪城にいた会津藩・桑名藩らは激昂し薩摩打つべしと盛り上がり、その勢いを徳川慶喜は止めることができず、幕末最期の戦争となる鳥羽伏見の戦いを皮切りに「戊辰戦争」へと突入していきました。