低い身分から歴代最年少で初代内閣総理大臣に上り詰めた男、伊藤博文。昭和世代の人は千円札のお札に顔が印刷されていたので知っている人が多い政治家です。
大日本帝国憲法の起草で中心的な役割を果たし、初代内閣総理大臣を務めたことでも知られていますが、その他にも版籍奉還・廃藩置県・四民平等・国会・鉄道・銀行・電信・郵便と全てにおいて携わっており、まさしく大日本帝国を作った人物と言えるでしょう。
そんな伊藤博文について、彼の人生年表を追いながら、子孫など詳しく解説していきたいと思います。
伊藤博文の生い立ち
伊藤博文は天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現 山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵と秋山長左衛門の長女・琴子の長男として生まれました。幼名は利助で以後いくつも改名を繰り返しています。
父・十蔵は田5反、畑2反しかない弱小農民で、博文5歳の時に破産してしまったため、一家を支えるために萩へ出稼ぎにでます。
運よく足軽の伊藤直右衛門(いとうなうえもん)の奉公人となり、その後気に入られて養子となりました。
父が足軽の家を継ぐことになったので、博文も自動的に足軽の家の籍となり、当時しっかりと身分制度が分かれていた時代にあっさりと農民の階層から抜け出すことができたのです。
伊藤博文はかなり運がよかったと言えるでしょう。
人生を切り開く一歩となる松下村塾へ
安政4年(1857年)2月、博文は江戸湾警備のため警備隊の一員として相模に派遣されました。そこでは来原良蔵という上司に気に入られて、何かと引き立ててもらうようになり、その後、来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾へ16歳の時に入門することになります。
松陰は博文の人と人とを取り持つ交渉の能力を見抜いて「中々の周旋家(政治家)になりそうな」と評価しました。
松陰から推薦される形で、博文は長州藩の京都派遣の随行をし、翌年長崎に遊学、10月からは来原良蔵の紹介で桂小五郎(後の木戸孝允)の手付け(従者)となり江戸へ赴きます。
そして、江戸へ来てすぐに吉田松陰が刑死となってしまい、その後は松陰からの影響を受けた他の松下村塾の面々と尊王攘夷運動に邁進していくことになります。
イギリス秘密留学と尊王攘夷運動
双璧と言われた高杉晋作・久坂玄瑞と一緒に、博文も過激な尊王攘夷の計画に携わっていき、幕府が御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちや、国学者塙忠宝(はなわただとみ)の暗殺に加担しました。
そんな中、江戸で知り合った生涯の補佐役・友人の井上薫から、イギリス行きに誘われます。このイギリス行きは藩の正式な許可を受けていないので、当時江戸の長州藩邸で兵学教授をていた村田蔵六(大村益次郎)に相談することで秘密留学を果たすことができました。有名な長州五傑のイギリス留学です。
しかし、留学中に長州藩の外国船砲撃事件を知った博文は、急いで帰国した後、藩の為に通訳として働くことになります。
そして高杉晋作が奇兵隊を挙兵し、藩内でのクーデターを成功させた時も、博文は共に力士隊を率いて決起に参加しました。
こうした数々の働きが認められ、藩から士雇の身分に引き上げられます。
その後、薩長同盟、大政奉還と時代が大きく動き、新しい明治という時代を迎えることになっていきました。
初代内閣総理大臣伊藤博文の誕生
伊藤博文がその名を「博文」と変えたのは、明治維新が成し遂げられてからです。
年号が明治に変わっても幕末の動乱は続いており、神戸港の開港式典でフランス人水兵と官軍側から神戸の制圧に派遣されていた備前藩の間で争いが起こり、フランス人水兵が負傷してしまいます。
この事件は、大きな外交問題に発展しかけてしまい、たまたま神戸に赴いていた博文が、事件の概要を知り対応にあたりました。
博文の機転で明治政府が独立国として認められる
この時、イギリス公使・パークスから、各国は新政府からの挨拶を受けていない事を指摘されます。事の重大さに気づいた博文は、当時大阪にいた外国人事務総督をしていた公卿・東久世通禧(ひがしくぜみちとも)や伍代友厚らに掛け合い、神戸にいた諸外国公使に「新政府樹立」を宣言します。
この宣言で、新政府は誕生わずか半年で世界の諸外国に独立国と認められることになりました。
通常、一国の政権が変わっても認められるためにはかなりの時間がかかるのが普通なので、この博文の機転は相当に評価されるべき行動です。
スピード出世で初代の内閣総理大臣へ
この事務処理がきっかけとなり、博文は外国事務御用掛に抜擢され、半年後には初の兵庫県知事となり、兵庫論などを唱えて版籍奉還、廃藩置県と次々と改革案を出して実行していきました。
その後、数々の部門や中枢で活躍していくことになり、鉄道、電信、郵便、造幣、日本銀行の設立と、猛烈な勢いでインフラ整備や改革を行い近代日本の形を作りあげるべく牽引していきます。
明治18年(1885年)には、歴代最年少で初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と歴任し、内閣を組閣しました。
その間、大日本帝国憲法制定の起草、日清戦争後下関条約に調印、初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長などを歴任します。
伊藤博文の暗殺
近代日本の創設、文明開化の伝道師として走り続けた博文でしたが、明治42年(1909年)、旧満州のハルビン駅で朝鮮人活動家・安重根に暗殺されます。享年69歳でした。
伊藤博文と韓国の関係について
1905年、第二次日韓協約により、当時の大韓帝国が日本の事実上の保護国となると、伊藤博文が韓国統監府の初代統監に任命されました。
日本政府は、内閣総理大臣を4度歴任した博文を初代統監にすることで、当時脅威となっていたロシアに対抗するため、韓国を早急に近代化させたいという思惑があったようです。
博文は国際協調派だった?
こうした背景があり、当時の陸軍軍閥・山縣有朋らは韓国直轄化を急いでいましたが、当の博文は国際協調派として、保護国として実質的に統治するだけで充分であり、韓国の力が付き次第、保護下も解除するべきという考えを持っていたようです。
また、韓国人に対しても、「日本より進んでいた時代があり、才能において日本人に劣ることはない」と高く評価しており、韓国の人民は悪くないが、政治が悪かったためにひどい状態になってしまったと発言した記録があります。
博文がとった韓国での政策
博文が初代統監となる前の韓国では、不正や腐敗が蔓延しており、財政破綻に陥っていました。貴族が百姓などから財産や生産物を奪い取っていたのです。
そこで博文は日本政府から無利子・無期限の資金を引き出し、道路の整備や鉄道の敷設、病院建設などの公共事業を積極的に行いました。
また、識字率が6%しかなかった韓国の状況を危惧し、「普通学校令」を公布。教育の普及に力を入れ、4年間に100校以上の学校を建設しました。
こうした博文の政策によって豊かになっていった韓国では、日韓併合時には1300万人ほどだった人口が、約30年後には2500万人にまで増えました。
韓国皇帝が博文の暗殺を非難
最終的に博文は韓国の民族運動家・安重根によって暗殺されてしまいますが、当時の韓国皇帝・高宗は安重根を批判し、「伊藤を失った事は我が国だけの不幸であり、その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である」として、博文を「韓国の慈父」と称えました。
伊藤博文の女好きについて
伊藤博文は愛妻家でありながら、天皇陛下から注意を受けるほど無類の女好きという評判が残されています。
晩年に、尊敬する人を聞かれた博文は「陛下以外なら、うちのおかか(梅子)」と男尊女卑の時代に女性を尊敬していると公言したと言います。
梅子と出会った時に既婚者だった博文は、その時の妻と離婚してまでも梅子に求婚し、彼女を妻にしました。
そんな妻がいても、無類の女好きが治らず40度の熱が出ても傍らに女性を侍らせ、たびたび新聞にも書き立てられる程で、女優・川上貞奴や女子教育者・下田歌子と浮名を流し、自宅にも芸者を連れ帰っていたと言います。
お札(千円札)と伊藤博文
伊藤博文は、昭和世代には馴染みあるお札、千円札の肖像画として描かれています。
C号券・発行開始日は1963年(昭和38年)11月1日~支払停止日は1986年(昭和61年)1月4日です。
印刷技術の向上により偽造紙幣が多発したため、この千円札が発行されることになりました。表は博文の肖像画ですが、裏面は本人が設立に力を入れた日本銀行です。
ちなみに、どうしてお札の顔に選ばれたのかと言うと、日本銀行がQ&Aとして正式に大きな理由を2つ公開しています。
理由① 親しみを持ってもらうため
まずは人々に親近感を持ってもらうために、良く知られている政治家、文化人、有名人などを描き、また、その人物の業績などを再認識して親近感を持ってもらうという理由があるそうです。
理由② 偽造防止のため
もう一つは偽造防止の観点から、簡単に複製できず、かつ人の目を引く特徴のある顔を選んだということです。この観点から、博文が千円札の顔になったようです。
伊藤博文の子孫
伊藤博文は70歳近くまで存命だったので、かなりの子孫がおり、日本のみならず海外をまたにかけて活躍していた人物が多くいます。
全て紹介するとかなりのボリュームになるので、直系と現在活躍している玄孫の方を紹介します。
伊藤博文直系の子孫について
直系の男子
長男・文吉、次男・眞一です。
文吉は農商務省参事官。軍需省顧問などを経て日本鉱業の社長となります。爵位は男爵。
文吉の母親は伊藤家の女中で、眞一の母親は新橋の芸者です。
二人共他家で育てられていましたが、のちに文吉は養子として伊藤の姓になります。
直系の女子
長女・貞子(二歳半で夭折)、次女・行子、三女・朝子です。このうち母親が妻、梅子なのは、貞子、行子だけです。朝子の母は、伊藤家の女中です。
女子は皆、大使、最高裁判所裁判官などの妻となっています。
直系の養子
養子には邦博がいます。邦博は、井上馨の兄の子です。
養子の邦博は宮内省に入り貴族院議員となり、辞職後、日本銀行監事・生活改善同盟会長・厳島保勝会総裁などを歴任します。爵位は侯爵。
現在活躍している玄孫の政治家
松本剛明氏
現衆議院議員、(民主党→自民党)。外務大臣(菅第1,2次改造内閣)を歴任しました。
藤﨑一郎氏
元外交官。駐アメリカ大使、外務審議官などを歴任して退官。現在は学校法人北鎌倉女子学園理事長に就任しています。
やはり政治家が多い?
子、孫、曾孫、玄孫とかなりの数の子孫がいますが、調べてみると外交官が多い事が目につきます。
日本と海外の橋渡しとして活躍した人が多いということです。
たった1年足らずで諸外国と渡り合うほどの英語力を身に着け、普段から毎日、英字新聞を読んでいた博文の子孫らしい活躍と感じます。
伊藤博文の生涯年表
さいごは、博文の人生をまとめた年表を書いて終わりにしたいと思います。近代日本を牽引し明治を代表した政治家の人生を再度振り返ってみましょう。
1841年 1才 熊毛郡束荷村(現・山口県光市)に生まれる。
1854年 13才 父が伊藤家の養子なり、伊藤姓となる。
1857年 16才 来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾へ入塾する
1862年 21歳 高杉晋作・久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ちをする。
1863年 22才 井上馨らとイギリス秘密留学
1864年 23才 奇兵隊挙兵に力士隊を率いて参加する。
1868年 27才 外国事務御用掛から兵庫県知事就任
1869年 28才 兵庫論と呼ばれた「国是綱目」を提出、版籍奉還を実現へ
1869年 28才 工部大輔として横浜燈台~横浜裁判所の間に電信線架設
1870年 29才 現場責任者として大阪に造幣寮(造幣局)を稼働させる。
1870年 29才 工部省新設・初代工部卿就任
1870年 29才 銀行設立財務調査のため半年間渡米
1871年 30才 廃藩置県
1871年 30才 賤民廃止令を出し四民平等を完結させる。
1871年 30才 岩倉使節団の副使として欧米へ渡る
1872年 31才 新橋~横浜間に日本初、鉄道を開通させる。
1882年 42才 憲法調査のため、渡欧
1885年 45才 初代内閣総理大臣就任
1888年 48才 大日本帝国憲法発布
1888年 48才 枢密院議長となる。
1890年 50才 貴族院議長とな。
1892年 52才 第二次伊藤内閣を組閣
1895年 55才 日清講和条約(下関条約)調印
1898年 58才 第三次伊藤内閣を組閣
1900年 60才 第四次伊藤内閣を組閣
1905年 65才 韓国統監となる。
1909年 69才 ハルビン駅で暗殺される。