坂本龍馬の生涯とは?身長や刀、年表を含めて詳細に解説!

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坂本龍馬は幕末の英雄とされる重要なキーマンで、龍馬がいなければ薩長同盟は実現せず、平和的に大政奉還はされなかったと言っても過言ではありません。

人間的にも魅力のある新しもの好きの人物で、ブーツに刀を差し、懐にはピストルというスタイルは有名でしょう。そして、ブーツは踵が結構あるので背丈も大柄に見えたそうです。

坂本龍馬という人はどのような人生を送ったのでしょうか、大柄に見えた身長の話や、近年話題となった愛刀の話などを、年表も合わせて解説していきたいと思います。

坂本龍馬の生い立ち

坂本 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐藩城下(現在の高知県高知市)の土佐藩郷士、坂本八平と母・幸の次男として生まれます。

竜馬は5人兄弟の末っ子で、兄の権平とは21歳の年の差があり、千鶴、栄、乙女という3人の姉がいました。

土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士階級にあたる郷士という身分でしたが、曾祖父の時に本家から多額の財産を分与されて独立していたので、かなり裕福な家庭でした。

 

坂本龍馬の幼少期

竜馬が生まれる前の夜に、龍が天を飛ぶ夢を母が見て龍馬と名付けたと言われていますが、幼少期の龍馬は空を飛ぶ龍とはかけ離れた子供でした。

12歳頃まで寝小便をし、泣き虫で甘えん坊、性格もどちらかというと気弱な子供だったそうです。

12歳の頃に、漢学の楠山庄助の塾に入学しましたが退塾処分となり、その後は「坂本家のお仁王様」と呼ばれた3つ上の姉である乙女が、継母の伊予と共に、武芸や学問を龍馬に教え育てました。

以後、竜馬の中で乙女姉さんは、特別な存在として生涯にわたり影響を与える存在となります。

 

武術に没頭し青年へと成長

13歳の頃から高知城下の日根野弁治道場に入門して小栗流を学び、勉学とは違いぐんぐんと上達をして、18歳の時には「小栗流和兵法事目録」を与えられるまでになりました。

さらなる高みを目指して1年3か月の遊学許可を得て江戸へ出立、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となります。

この江戸への出立の際に、父・八平より「修行中心得大意」という訓戒状を授けられ江戸へ向かいました。

 

再び江戸遊学。千葉道場で塾頭になる

江戸での龍馬は剣術だけではなく兵学も学び、佐久間象山の私塾にも入学します。

ペリーの黒船来航で、藩の江戸屋敷の臨時守備に付き、異国の脅威を目のあたりにして1度目の遊学を終え帰国しました。

土佐に帰り日根野道場の師範代を務めながら、ジョン万次郎と親交のある絵師、河田小龍を訪ねて国際情勢について学び、開国の必要性や海運の重要性を教えられ感銘を受けます。

安政3年(1856年)9月に2度目の江戸修業が許され再び上京、安政5年(1858年)1月、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けら千葉道場で塾頭を務めました。

 

安政の大獄。龍馬は土佐勤王党へ入党

竜馬が2度目の帰郷をした頃、土佐藩内では大きな動きがありました。井伊直弼が幕府大老に就任し、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出します。(安政の大獄)

この当時、土佐藩主であった山内容堂は、幕政改革にも力を入れて一橋慶喜を推戴していたため、安政の大獄により家督を養子・山内豊範に譲り隠居謹慎する事態になっていました。

しかし、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される事件が土佐に伝わると議論が沸き起こり、尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となります。

翌年、龍馬の親戚で友人でもある武市半平太は江戸で長州、薩摩と会合をし各藩の力で朝廷の権威を強化し、幕府に対抗することで盟約を交わしました。

この同盟をきっかけに半平太は、「土佐勤王党」を結成し、竜馬も土佐勤王党に入党します。

久坂玄瑞との出会いと脱藩

文久2年(1862年)1月に竜馬は剣術修業を名目に、半平太の書簡を預かり長州の久坂玄瑞を訪ねました。

萩に10日ほど滞在して松下村塾の面々とも面会し、玄瑞から「もはや、諸侯たのむに足らず、公卿頼むにたらず。この上は、草莽崛起するほかない。大儀のためなら、藩が滅亡しても藩の枠を超え決起しなくてはいけない」と説明を受けて衝撃を受けます。

何かしら玄瑞から影響を受けたのか、その後帰国して文久2年(1862年)3月24日に沢村惣之丞とあっさり脱藩してしまいました。

 

「日本第一の人物」勝海舟との出会い

脱藩した龍馬は同年9月に江戸に入り、12月に松平春嶽の紹介状を携え開国論者の勝海舟を斬るために訪ねますが、勝から世界情勢と海軍の必要性を聴かされ大いに感服を受けその場で弟子入りを志願します。

その後、龍馬は勝が幕府の「海軍操練所」の設立の認可を受けると準備のために奔走し、元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が正式に開設され海軍塾塾頭に任ぜられます。

しかし、わずか数か月の間に土佐では土佐勤王党の粛清、長州では下関事件が起こり、とうとう八月十八日の政変で長州が御所から追放され政局までも一変してしまいました。

激流の波は止める事ができず、池田屋事件、禁門の変、馬関戦争、長州討伐と、長州藩にとっては四面楚歌の様相が強くなっていきます。

いくつかの出来事に海軍塾生が加わっていたことで、勝は解任されて江戸召喚を命ぜられ、出立する際に龍馬や塾生達を西郷隆盛と小松帯刀に頼み、大阪の薩摩藩邸で保護を頼みました。

 

亀山社中と薩長同盟

龍馬と塾生達は、航海術を必要とする薩摩藩から出資してもらう形で亀山社中を結成しました。この亀山社中は、私設海軍、貿易、商社などの総合的役割を果たす組織で、日本初の株式会社のようなものです。

最初の大仕事となったのが、八月十八日の政変と禁門の変以後、水と油のような関係にあった薩長両藩の利害一致による和解の周旋でした。

薩長とも欧米列強の実力を思い知らされ幕藩体制のままでは立ち行かぬことを理解しており、長州は討伐に備えての武器の購入、薩摩は兵糧の確保という物質的な取引と共に、討幕の部分で利害が一致していたのです。

龍馬と中岡慎太郎を中心に薩長間を奔走、一度は西郷隆盛の会談直前のキャンセルなどもありましたが、慶応2年1月21日(1866年3月7日)薩長同盟を締結させました。

この後、亀山社中は龍馬が土佐藩より脱藩を許され、土佐藩下に置かれることになり海援隊と名称を変更、龍馬が隊長に就任します。

 

船中八策そして大政奉還へ

海援隊隊長就任後ほどなくして、いろは丸沈没事件がおこりました。

龍馬は、長崎奉行所で紀州藩側の過失を追及し、賠償金を受け取ることで決着させます。

その頃、京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤象二郎は容堂に京都へ呼ばれていました。

この事件の談判を終え、龍馬は後藤象二郎と夕顔丸に乗船し、長崎から兵庫へ向います。

大政奉還論を山内容堂に進言するため、船の上で後藤に政治綱領を提示、この提示はのちに海援隊士に成文化され、船中八策とされました。

この船中八策を元に大政奉還論は土佐藩論となり、山内容堂が徳川慶喜に大政奉還論を建白します。

 

坂本龍馬の暗殺について

慶応3年11月15日(1867年12月10日)坂本龍馬は中岡慎太郎、山田藤吉と共に京都近江屋の2階で複数の刺客に襲われ暗殺されました。

実行犯について、明治維新後に元見廻組の今井信郎が自供、禁固刑になっていることから一番有力な説だとされているのですが、自供以外に現場に残された鞘のなぞなどの憶測から現在も真犯人説、黒幕説など議論され続けています。

 

坂本龍馬の誕生日は命日と同じ?

余談ですが、坂本龍馬の誕生日と命日は同じだといわれています。もしそれが本当なら、まるで漫画のような人生だと言えますね。

坂本龍馬の妻について

坂本龍馬の妻・おりょう(お龍)の正式な名前は、楢崎龍(ならさきりょう)といいます。

気が強く自由奔放な性格で、そんな所が龍馬に好かれたのかもしれません。

元治元年(1864)8月1日に内祝言を挙げ、西郷隆盛・小松帯刀の誘いで、湯治も兼ねて日本初の新婚旅行を楽しんだエピソードが残されています。

「寺田屋遭難」の際、入浴中のおりょうが袷1枚で階段を駆け上がり龍馬の危機を救った話はあまりにも有名です。

ただ、龍馬暗殺後、晩年の人生はあまり幸せに暮らしてはいなかったようで明治39年1月、横須賀で亡くなりました。

また、龍馬には剣術に優れた美人、千葉さな子という婚約者もいたということで、かなりのモテ男だったようです。

 

坂本龍馬の身長について

龍馬はかなり大柄だったようで、所説ありますが5尺8寸というのが一番有力らしく、約176㎝ほどだと言われています。

その上ブーツを履いていた時は、踵が3~5㎝はあるのでさらに大きく見えたはずです。

実際当時の日本人男性の身長平均が150㎝ほどなので、今の感覚からしたら180㎝は軽く超えて見えたと思います。

 

坂本龍馬の刀について

近年に龍馬の本物の愛刀であったと確認された刀が見つかり、2017年には没後150年を記念して愛刀が3本揃った形で展示され、愛刀秘話としてNHKなどの番組でも特集されました。

そんな龍馬の愛刀を紹介したいと思います。

 

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

龍馬の最後を見届けた兄から譲り受けた坂本家宝刀、大柄で長刀を好んだらしく二尺二寸を愛用したことで知られ、京都国立博物館に現存しています。

 

埋忠明寿(うめただ みょうじゅ)

赤い鞘が特徴で2尺3寸2分ある長刀、梅の華麗な彫金が施されています。

赤い鞘は海援隊士のシンボルだったらしく、龍馬と仲間との絆を物語る刀とされています。

 

備前長船勝光同宗光合作(びしゅうおさふねかつみつむねみつ)

龍馬が父から授かった刃長52cmの脇差で、表に「五大力菩薩」、裏に「八幡大菩薩」の彫刻があります。

昭和4年(1929年)に東京で展示された後に行方不明となっていましたが、2015年に北海道在住の坂本家関係者が保存していたことが判明、高知県立坂本龍馬記念館で公開され話題となりました。

 

坂本龍馬の人生年表

さいごは、龍馬の人生をまとめた年表を書いて終わりにしたいと思います。幕末の英雄と言われる龍馬の生きざまを年表を追いながら振り返ってみましょう。

1835年   0才 土佐藩城下に生まれる。

 

1848年 13才 日根野道場に入り、剣術を学ぶ。

 

1853年 18才 剣術修行のため江戸に出発し桶町千葉道場に入門。

 

1853年 18才 ペリー来航で江戸土佐藩邸の警備の任につく、佐久間象山の私塾へ通う。

 

1854年 19才 江戸より帰国する。この頃河田小龍に会う。

 

1858年 23才 再び江戸遊学、桶町千葉道場の塾頭になる。

 

1861年 26才 武市半平太、江戸にて土佐勤王党を結成、龍馬勤王党に加わる。

 

1862年 27才 武市の使者として萩に赴き久坂玄瑞と会う。

 

1862年 27才 沢村惣之丞と共に脱藩する 。

 

1862年 27才 勝海舟に弟子入りする。

 

1863年 28才 土佐藩主より脱藩の罪が許され、海軍塾の塾頭になる。

 

1863年 28才 土佐藩からの帰藩命令に従わず再度、脱藩する。

 

1864年 29才 勝海舟の使いとして、西郷隆盛に会う。

 

1864年 29才 神戸の海軍操練所が閉鎖となり 大阪の薩摩藩邸に保護される。

 

1864年 29才 おりょうと内祝言をあげる。

 

1865年 30才 薩摩藩などの出資で亀山社中を長崎に設立する。

 

1866年 31才 龍馬らの仲介により薩長同盟が成立する。

 

1866年 31才 伏見の寺田屋で襲撃され手に大けがをする。

 

1866年 31才 怪我の湯治も兼ね、おりょうと鹿児島旅行をする。

 

1866年 31才 引き渡しのユニオン号で長州と幕府の海戦に参加する。

 

1867年 32才 亀山社中を土佐藩下におき海援隊と改名、海援隊長になる。

 

1867年 32才 夕顔丸で後藤と長崎から神戸へ向かう船中で船中八策を提示する。

 

1867年 32才 大政奉還を提唱、徳川慶喜が大政奉還を上奏、成立する。

 

1867年 32才 新政府職制案の新官制擬定書を策定する。

 

1867年 32才 船中八策を元に、新政府綱領八策を起草する。

 

1867年 32才 近江屋で中岡慎太郎と共に襲撃を受けて暗殺される。

 

1868年 - 王政復古の大号令