文久3年(1863年)尊王攘夷一色に染まった京都に大事件が起こります。
幕末の大きな分岐点となったこの年は、文久3年2月22日(1863年4月9日)の足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)から同年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変までの6ヶ月間で天と地がひっくり返るような大事件が続発します。
この八月十八日政変の後、京都の尊王攘夷派は霧散してしまい、新撰組が躍動し西郷隆盛率いる薩摩藩を中心とする公武合体派によって政治は動いていくことになります。
幕末の歴史に大きな影響を与えた八月十八日の政変とはどんな出来事だったのでしょうか?禁門の変への流れについても解説していきます。
幕府の権威失墜と尊王攘夷派の台頭
1860年3月24日、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門外の変で暗殺され、1862年2月13日老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)が襲撃されて負傷、その後失脚するなど、文久年間に入ってから相次いで幕府首脳が尊王攘夷派浪士に襲われる事件が起こり、幕府の権威は失墜します。
これに対して、尊王攘夷派の意気は上がり、京都でも「天誅」と称する尊王攘夷派志士による暗殺が横行。
土佐勤王党の岡田以蔵(おかだいぞう)、薩摩藩の田中新兵衛(たなかしんべえ)らによって公家、武士、町人の区別なく「尊王攘夷にあらずんば人にあらず」的な風潮が蔓延し、毎夜、暗殺、暴行、略奪、恐喝が行われ京都の街は無法地帯となります。
文久3年2月22日(1863年4月9日)に徳川幕府を室町幕府になぞらえてこれを侮蔑するために足利尊氏、義詮、義満の木像の首と位牌が鴨川の河原に晒される足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)が起こりました。
この状況の中、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が徳川将軍としては229年ぶりに上洛、1週間後には孝明天皇とともに賀茂神社を参拝、家茂は和宮降嫁の条件である攘夷を迫られ5月10日をもって決行すると約束します。
攘夷決行と公武合体派の巻き返し
5月10日、長州藩は下関海峡のアメリカ商船を砲撃、攘夷を決行しますが他藩は全く動く気配を見せず、長州藩が四国(米、英、仏、蘭)連合艦隊から報復攻撃を受けても近隣諸藩は傍観するのみで、長州藩を助ける動きはありませんでした。
攘夷決行を約束した将軍・家茂も6月になると逃げるように京を離れて江戸に戻り、孤立状態となった長州藩は現状を打開して、国論を再び攘夷に向かわせるために孝明天皇の大和行幸を企てます。
姉小路公知の暗殺で長州藩の立場が弱くなる
ところが7月に急進的尊王攘夷派の公家である姉小路公知(あねがこうじきんとも)が京都御所外郭の朔平門(さくへいもん)で襲撃され翌日に死去、京都の尊王攘夷派の立場が揺らぎ始めます。
尊王攘夷派の久留米藩士・真木保臣(まきやすおみ、真木和泉)、長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)らは孝明天皇の大和行幸に合わせて天皇親征の軍議を行い、伊勢神宮参拝の後に武力討幕の挙兵を行うことを画策します。
しかし大和行幸には鳥取藩主・池田慶徳(いけだよしのり)ら多くの大名が反対し、熱心な攘夷主義者であった孝明天皇自身も急進派の横暴を嫌っており、行幸は時期尚早と考えていました。
8月13日、大和行幸の詔が発せられましたが、これに合わせて薩摩藩、会津藩を中心とした公武合体派が尊王攘夷派一掃の計画が動き出します。
八月十八日の政変の詳細と実行
8月15日、薩摩藩主・島津久光の意を受けた薩摩藩士・高崎正風(たかさきまさかぜ)と京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり、会津藩主)の了解を得た会津藩士・秋月悌次郎(あきづきていじろう)は中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)を擁して公武合体派によるクーデター(政変)を実行に移しました。
中川宮は16日に参内、孝明天皇に拝謁しこれを説得、17日に朝廷における攘夷派一掃の勅命が下りました。
攘夷派の追い出し
翌18日中川宮、松平容保、右大臣・二条斉敬(にじょうなりゆき)らが参内すると会津藩兵1500、薩摩藩兵150、他に淀、徳島、鳥取、米沢など諸藩が繰り出した兵2000名以上が京都御所の九つの門を封鎖、警備につきました。
そして在京諸藩主に参内を命じて、三条実美を代表とする尊王攘夷派の公家に禁足、面会禁止(謹慎処分)を命じ、長州藩主毛利敬親・定広父の処罰も決議されました。
当然のごとく、大和行幸は延期となり長州藩はこれまで警備していた堺町御門の担当を外され、京都における足場を全て失いました。
八月十八日の政変後の動静
謹慎処分となった三条実美らは結局、公卿籍を剥奪され、京都追放処分となり長州藩兵に守られながら長州へと落ちていきます(七卿落ち)。
孝明天皇の大和行幸に呼応するように8月17日に土佐脱藩志士・吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らの天誅組が大和国(原罪の奈良県)で挙兵するも翌日の政変で状況は一変し、幕府軍に攻められて壊滅、吉村も戦死しました。
10月には島津久光が薩摩藩兵を率いて入京、続いて松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、山内容堂 (やまうちようどう)らも上洛、彼らに一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)・伊達宗城(だてむねなり)を加えて参預会議が開かれました。
禁門の変が勃発
八月十八日の政変で京都での活動拠点を全て失った長州藩は失地回復を図るため機会を伺っていましたが、京都三条の池田屋で長州藩士及び尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃される池田屋事件が起こると、これを口実に京都へ藩兵を進発させ京都を包囲、薩摩藩や会津藩と戦火を交える禁門の変を起こします。
八月十八日の政変と新撰組
1863年、尊王攘夷派が我が世の春を謳歌しているとき、1つの武装集団が京都の壬生で誕生しました。
3月、将軍家茂の上洛に合わせて江戸から上洛してきた浪士組が京都で分裂し、京都に残った約24名が壬生浪士組を結成、これが後の新撰組になります。
八月十八日の政変の時には、すでに会津藩お預かりであった新撰組も当然出動しました。
このとき総員約50名、2列縦隊で御所の蛤御門に向かい会津藩兵と合流、その後新撰組単独で御花畑門の警固に当たりました。
長州藩による武力攻撃が無かったため刀を抜くことはありませんでしたが、この活躍が認められ壬生浪士組は新撰組の名を賜りました。
武家伝奏(ぶけてんそう)から賜った説と松平容保から賜った二つの説が存在しますが、どちらにせよ幕府からも朝廷からも認められた存在となったのです。
八月十八日の政変における西郷隆盛
文久3年8月18日(1863年9月30日)、八月十八日の政変があったとき西郷隆盛は沖永良部島(おきのえらぶじま)に遠島処分となっていました。
1862年2月、奄美大島の潜伏生活から鹿児島に戻った西郷隆盛は島津久光の上洛に同行するため下関にて村田新八(むらたしんぱち)と待機していました。
この頃京都、大阪では急進的尊王攘夷派による京都焼き討ち、倒幕の挙兵の企てが進行しており、この話を福岡藩士・平野国臣(ひらのくにおみ)から聞いた西郷隆盛はこれを阻止すべく島津久光に無許可で上京しますが、説得には失敗し、その上、命令を無視された島津久光の怒りに触れて沖永良部島へ流されていたのです。
八月十八日の政変で京都政治の主導権を握った薩摩藩でしたが、公家や公武合体派諸藩との折衝を担当するものがおらず、人材不足が甚だしく、大久保利通(おおくぼとしみち)や小松帯刀(こまつたてわき)の勧めもあって西郷隆盛は赦免され、1864年再び鹿児島に戻りました。
この後西郷隆盛は禁門の変や長州征伐では薩摩藩の外交官として活躍しています。
八月十八日の政変がもたらしたもの
歴史の大きな流れから見ると、わずか1日のほぼ無血で行われたクーデター(政変)の扱いは小さなものです。
しかしこのクーデターによって実質的に尊王攘夷派は壊滅状態となり、禁門の変、長州征伐を経て長州藩は厳しい立場に立たされることとなりました。
結果論から言えばこの後、長州藩も薩摩藩も欧米列強との戦闘を経験し、攘夷が不可能であることを悟り、開国、倒幕へと進路を変更していきます。
また苦境に陥っていた長州藩を救ったのが八月十八日の政変で長州藩を蹴落とした薩摩藩であったことは皮肉としか言いようがありません。
表面的には尊王攘夷派と公武合体派の主導権争いであった八月十八日の政変は尊王攘夷と言う実行不可能な思想との決別のきっかけとなった事件だったのです。