宇喜多秀家とは、豊臣秀吉に服属して豊臣政権下の五大老の一人として活躍した人物です。
関ヶ原の戦いにおいては西軍についていたため、八丈島に配流されました。
そんな宇喜多秀家の生涯と、八丈島に配流された原因、正室の豪姫また子孫について解説していきます。
生い立ち
宇喜多秀家は元亀3年(1572)に備前国岡山城主であった宇喜多直家の次男として誕生しました。
天正9年(1581)に父・宇喜多直家が病死すると従属していた織田信長の許しを得て家督を継ぐこととなります。
備中高松城攻めに協力
織田信長の命令で豊臣秀吉は中国遠征を進めます。
その中国遠征の中に宇喜多秀家も含まれ、備中高松城攻めに協力することとなりました。
しかし、この頃はまだ宇喜多秀家が幼かったため、代理として叔父の宇喜多忠家が軍を率いていたようです。
本能寺の変
明智光秀の謀反によって引き起こされた本能寺の変で、織田信長が亡くなると豊臣秀吉と毛利輝元が和睦し、宇喜多秀家は毛利輝元の監視役となります。
豊臣秀吉に仕える
宇喜多秀家は元服を終えると前田利家の娘でもあり、秀吉の養女・豪姫を正室として迎えました。
宇喜多秀家は豊臣秀吉から寵愛を受け親子関係を結ぶなどし、豊臣秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなります。
豊臣政権を支える存在に
その後、宇喜多秀家は小牧・長久手の戦いや、紀州征伐また四国攻めなどにも参加しました。他にも九州征伐の際には毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎とともに功績を残します。
文禄元年(1592)から始まった文禄の役では大将として出陣し京畿道の平定に力を注ぎます。
翌年の1月には、小早川隆景らと共に碧蹄館の戦いで勝利をおさめ晋州城攻略を果たしました。
慶長2年(1597)からの慶長の役にも参加したのち、日本に帰国した際に豊臣秀吉から五大老の一人に任じられます。
宇喜多騒動
豊臣秀吉亡き慶長4年(1599)に宇喜多騒動と呼ばれる内乱が起きます。
宇喜多騒動の発端となったのは重臣だった戸川達安・岡貞綱らが宇喜多秀家の側近・中村次郎兵衛の処分を宇喜多秀家に迫ったことが始まりでした。
宇喜多秀家は側近の中村次郎兵衛を大阪から加賀国へ逃亡させると、それに激怒した戸川達安は兵を率いて大阪の自邸へ立て籠もりをはかります。
この騒動の朝廷は大谷吉継と徳川家康の家臣・榊原康政が請け負いましたが、家臣・榊原康政が伏見在番の任期が終わっても調停を続けたため、国許での政務が滞り徳川家康に叱責を受け、その後、大谷吉継と徳川家康がこの騒動の朝廷を請け負いました。
騒動は徳川家康が裁断し、内乱を回避したものの、宇喜多秀家と対立していた従兄弟・宇喜多詮家と戸川達安、岡貞綱は関ヶ原の戦いにおいて徳川軍についたため、宇喜多騒動は、結果的に関ヶ原の戦における西軍の敗戦の一因とされています。
関ケ原の戦い
豊臣秀吉の死後、豊臣家内で武断派の福島正則と加藤清正らが、石田三成との抗争が始まりました。
慶長5年(1600)徳川家康が会津征伐のため出兵しているのを機に石田三成と毛利輝元は徳川家康を打つため挙兵します。
宇喜多秀家は、西軍の主力として伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略し、その後、伊勢国長島城を攻撃し美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流しました。
しかし、同じ豊臣一門であった小早川秀秋が徳川家康率いる東軍に寝返ったため西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅に追い込まれました。
この関ヶ原の戦いにおいて西軍は敗北となります。
改易
関ヶ原の戦いで敗北した宇喜多家は徳川家康によって改易されました。
しかし、宇喜多秀家は伊吹山に逃げ込み、その後は京都の太秦で逃走を図ります。
太秦での潜伏途中、京都所司代の奥平信昌に発見されるも逃走し関ヶ原の戦いの際、同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び牛根郷にて匿われました。
八丈島に配流
牛根郷にて匿われた宇喜多秀家でしたが、島津氏が宇喜多秀家を庇護しているという噂が広まったため慶長8年(1603)に徳川家康のもとに身柄が引き渡されました。
島津忠恒と縁戚の前田利長の懇願によって宇喜多秀家の死罪は免れるも駿河国久能山へ幽閉されます。
その後、慶長11年(1606)4月に宇喜多秀家は息子の秀高、秀継と共に八丈島へと配流となり、この地で50年を過ごしました。その際、正室・豪姫の実家である加賀前田氏、宇喜多旧臣であった花房正成に援助を受けていたとされます。
八丈島に配流されていた宇喜多秀家は高貴な身分であったため他の流人よりも厚遇されますが、その暮らしは質素であったようです。
この質素な暮らしに正室・豪姫は心配し慶長19年(1614)から、1年おきに白米や衣服、衣料品などを八丈島に仕送りを行っていました。
宇喜多秀家の最期
元和2年(1616)には宇喜多秀家の刑が解かれるも宇喜多秀家は八丈島にとどまり、明暦元年(1655)11月20日に84歳でこの世を去りました。
宇喜多秀家の正室・豪姫
宇喜多秀家の正室・豪姫は前田利家の娘です。
父・前田利家は豊臣家との交流を深めるため豪姫を2歳の時に豊臣秀吉の養子として豊臣家に送り込みました。
宇喜多秀家の正室として天正16年(1588)以前に迎えられたとされ、その後、宇喜多秀家との間に、息子の秀高、秀継と娘の理松院を授かります。
宇喜多家が改易となった際、豪姫は娘の理松院を連れ数人の家臣と共に岡山城から、兄・前田利長のいる加賀へと移りました。
キリストの洗礼を受ける
この頃から、内藤ジュリアからキリストの教えを受け豪姫はキリストの洗礼を受けたとされています。
豪姫はマリアという洗礼名を付けられました。
その後、豪姫は寛永11年(1634)5月に金沢城鶴の丸にて61歳で亡くなります。
子孫
大名の宇喜多家は滅亡となるも、八丈島に宇喜多秀家と共に配流された宇喜多秀家の長男・秀高と次男・秀継が宇喜多家の血脈を八丈島で伝えたとされています。
八丈島には20ほどの分家があったとされ、宇喜多家の子孫たちは浮田や喜田と苗字を変えたようで、明治にはいると宇喜多一族は赦免となり本土移住が許されました。
本土移住が許されると前田家の援助を受け東京にある前田氏の土地に宇喜多一族は留まったとされています。
最後に
宇喜多秀家は豊臣秀吉のもとで数々の戦に参戦し、豊臣政権を支え続け、関ヶ原の戦い後は八丈島に配流され妻・豪姫や豪姫の実家である前田家からの援助を受けながら八丈島で生涯を閉じました。
八丈島に配流された際、正室・豪姫は宇喜多秀家と共に八丈島に行くことを望んだようですが、許されることはありませんでした。
その後も他の家に嫁ぐことはなかったので、夫婦仲は良かったのではないでしょうか。
宇喜多秀家亡き後も、前田家は宇喜多家を援助し続け明治時代に入ると宇喜多一族は本土への移住を果たしました。