前田利家は織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた武将で「槍の又左」などとも呼ばれ、武勇や派手な兜、剛胆なエピソードなどでも人気の武将です。
前田利家の生涯や正室のまつとのエピソード、子孫・家系図についても触れながら解説します。
出自について
前田利家は天文7年12月25日(1539年1月15日)に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)に生まれました。荒子城城主の前田利春の4男であり、幼名は犬千代と言います。
利家を生んだ前田氏は、もとは美濃斎藤氏の一族で、前田利家が菅原道真の末裔を主張するのもここから生まれたものと思われています。
そして14歳になると同じ尾張国の織田信長の下で小姓として働きはじめます。信長は3歳下の利家のことを大変可愛がったと言われており、資料によっては衆道(男性同士の同性愛)の関係があったのではないかといわれていた程ですが、今では不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したというだけ、という説が有力だと言われています。
織田家家臣として
「捨阿弥事件」で信長を怒らせる
前田利家の若い頃はとてもやんちゃだったようで、派手な着物や兜を身につけ、流行りの歌を歌いながら道を歩くような若者だったため、城下の荒くれ者ですら利家には近づかなかったようです。現代でいうとヤンキーのような若者だったのかもしれません。
ですので、「うつけ者」と言われ同じく風変わりな行動やファッションで目立っていた信長とは気が合いました。
ですが、あるときから信長は利家に対して敵対心を露にします。「刺客阿弥事件」といい、前田利家が信長の見ている前で彼が大変かわいがっていた捨阿弥という茶坊主を斬り殺してしまったのです。
利家からしてみれば、捨阿弥という男は、信長のお気に入りということで威張っていて鼻持ちならない小者でした。
利家やほかの織田家家臣への横柄な態度も腹が立ちましたが、それだけではなく利家の正室・まつの父親の形見である大切な刀を盗んだためとうとう怒りが頂点に達し、信長に成敗の許可を得にいきますがそれを拒否されてしまいました。
そして当てつけのように信長の目の前で捨阿弥を斬り殺してしまったので、利家は織田家から追い出されてしまい、浪人同然の貧しい暮らしを迫られました。
このときまつとの間には長女・幸姫が生まれており、生活にたいへんな苦労をしたことがわかっています。
戦果をあげてようやくゆるされる
利家は帰参を焦り、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いかに参加し、首級をあげましたが信長には無視されてしまいました。
翌年の美濃斎藤龍興攻めに紛れ込み、名高い敵の豪傑を打ち取ってようやく帰参を許されました。戻ってきた利家はやはりとても強かったので、「比類なき日本無双の槍」だと信長から絶賛されました。
その後は天正3年(1575)に名高い長篠の戦いで織田軍として武田軍を共にやぶり、また同じく天正3年には越前の一向一揆を信長と共に制圧しました。
豊臣家家臣として
本能寺の変から賤ヶ岳の戦い
天正9年に前田利家は能登に封じられ、石川県七尾市に小丸山城という城を築きます。
城主になったのもつかの間、天正10年に上杉景勝を攻めるために柴田勝家、佐久間盛政らと越中魚津に遠征します。
同年6月、魚津にて滞陣中に京都では本能寺の変が起こったとの知らせが届き、利家は迅速に七尾に戻りました。また同じ頃豊臣秀吉は山崎の戦いにて明智光秀をやぶり、織田政権後継者の中で最も力を持つ家臣となっていきます。
織田家家臣として最古参の柴田勝家と豊臣秀吉の確執は深まっていき、天正11年には賤ヶ岳の戦いが勃発します。
利家は豊臣秀吉とも親しく、また双方の正室同士も仲良しという仲でしたが、柴田勝家は利家が若い頃に起こしてしまった「捨阿弥事件」の際の恩人でした。
ですので義をたてて利家は柴田家側につきますが、戦況をみて秀吉の軍が勝ちそうにとなると判断すると積極的に戦いに参加することはしなかったといいます。
豊臣家家臣としての活躍
柴田勝家の死後利家は豊臣家家臣として活躍することになります。また賤ヶ岳の戦い後、本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領である加賀国の一部を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移すことになりました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどに豊臣軍として参加し、秀吉にとっても信頼できる家臣となっていました。
真価が発揮された晩年
豊臣家家臣対立の最後の防波堤
秀吉の最晩年は、後継者や自分が死んだ後の家臣についての心配がついて回りました。そのような中秀吉は前田利家に嫡男・豊臣秀頼の傅役として利家を指名し、関白である秀吉の居城・大阪城に住むことを遺言として慶長3年に亡くなりました。
その頃豊臣家では加藤清正ら武断派と、石田三成ら文治派によって家臣の対立が起こっており、一触即発の状況と言って良いほど緊張感のある状況だったのです。
利家は武断派と文治派の仲裁役となり、家臣たちが勝手に突出した動きをしないように様々な働きをしていました。
そのような中、豊臣家家臣の分裂の危機を利用して着々と権力を増していく武将もいました、それが徳川家康です。
家康の独走を防いでいた?
秀吉は「大名同士で私的な婚姻関係を結んではいけない」という遺言を残していました。
しかし徳川家康は福島正則や加藤清正、伊達政宗などに徳川家の者と婚約させて勢力を広めようとしていたため前田利家や石田三成、小西行長、宇喜多秀家などから糾弾され、一時はこれらの武将と家康との間で戦になるのではないかというほどでした。
資料によれば、利家は「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、徳川家康はもう勝手なことをしている、(中略)話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と家督を譲った利長にいうほど、この家康の行為に対しては怒りを表していたようです。
関ヶ原の戦いを見越していた?
慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)に前田利家は病死してしまいます。利家の死の直後には石田三成が武断派武将たちによって襲撃され、また徳川家康も更に力をつけ、関ヶ原の戦いという大きな合戦という大きな流れに向かっていくことになります。
利家は死に際して、嫡男である利長にこんな遺言を残していました。
- 弟の利政を居城のある加賀にとどめて、利長は大阪で豊臣秀頼を守る役目を果たすこと。
- 嫡男の利長は何があっても3年間は加賀に帰ってきてはいけない。この3年で世が乱れるから。
- もし謀反を起こすものがいたら利政にも軍を率いて上洛させること。
しかし利長は家康の讒言により加賀に帰らされ、その直後に謀反の疑いをかけられてしまいます。
弟の利政は遺言に従って関ヶ原の戦いでは西軍として戦いますが、その後加賀の所領は東軍として戦った兄のものとなってしまいます。
こうして、全て利家の遺言の通りに世の中が動いていたことになったのです。人物や物事に対して非常に優れた観察力、判断力のあった武将と言えるでしょう。
家紋について
梅鉢紋について
前田利家は3つの家紋を使用していました。
特に有名なものは「梅鉢紋」といい、「梅鉢」の家紋は、学問の神様で名高い菅原道真がよく使用していた家紋です。利家は自分のことを「道真の末裔」と言っていたようで、そのために梅鉢紋をよく使用していました。
この家紋は時代と共に変化し、後に前田家では中央の部分が刀のように見える梅鉢紋を使用するようになっています。
その他の家紋について
その他には豊臣秀吉や、徳川家康に下賜された家紋があります。
一つは「五七桐紋」といい、秀吉から下賜された家紋です。秀吉は自分の家紋を家臣に多く下賜しており、「五大老」と呼ばれ自身の死後に家臣達の仲裁も頼んだ忠臣・利家にももちろんこの家紋を下賜していました。日本の硬貨にも使われている非常に有名な家紋です。
もう一つは徳川家康より下賜された「菊紋」があります。菊紋といえば現在は天皇家が使用している家紋ということで有名ですが、当時は大名たちもよく使用していたようです。
しかし利家はあまりこの家紋を使わなかったと言われています。
兜について
若い頃の利家は、ケンカっ早く、変わった衣装や派手な得物を好む傾奇者と言われていました。
そんな利家が愛用していた兜は「長烏帽子形兜」といい、長烏帽子よりも小ぶりで実戦向きな「烏帽子形兜」となっています。
烏帽子とは平安以降の成人男性が正装時にかぶっていた帽子のことをいい、円柱を左右から潰したような形をしている烏帽子形兜はその形が似ていることから「鯰尾形兜」と混同されることもあります。
鯰尾形は両脇に目やヒレがあるのが特徴ですが、一方烏帽子形は鉢巻が巻かれたモチーフが多くなっており、前田利家はこの烏帽子の形を好んだと言います。身長が六尺(約182cm)あったともいわれる利家が、このように高い兜をかぶった様子は、周りを圧倒し、存在感を示したことは想像に難くありません。
ムカデや毛虫などの昆虫をモチーフにした前立ては、「後ろに退かない」ことの象徴として縁起が良く、戦国武将に人気がありました。
現在でも五月人形などで人気のある兜です。
まつについて
戦国時代で一番子供を産んだ女性
利家の正室はまつ(芳春院)という女性で、天文16年(1547年)7月9日に生まれ、篠原一計の娘として生まれました。
永禄元年(1558年)、数え12歳(満11歳)で従兄弟にあたる前田利家に嫁ぐと、その年に満11歳で長女の幸姫を出産します。
その後は利家との間に2男9女をもうけ、合計11人の子供を産みました。
記録が残る限りでは、伊達晴宗の正室である久保姫と並んで、同時代の中では最も子供を産んだ女性だと言われています。
また末娘の千世姫の血脈は明治天皇に受け継がれています。
江戸時代における諸大名妻子江戸居住制の第1号
まつは慶長4年の利家の死後、落飾して芳春院と名乗ります。
関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)、前田家が徳川家康に対して謀叛の疑いがかかると交戦を主張する前田利長を宥めるために自ら人質となって江戸に下り、14年間を江戸で過ごすことになりました。
その後江戸幕府は諸大名妻子江戸居住制を取り入れることになりますが、その先駆けとなったのです。
豊臣秀吉の妻と仲良しだった?
まつは才色兼備で教養があり、客観的かつ冷静に物事を判断できる優れた女性として評判でした。
同じく良妻として名高い豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)とは懇意にしていたという記録が残っています。
例えば、利家とまつの婚礼の仲人をしたのはねねであったと言われていたり、お互い幼い頃からの仲良しだった、という説もあります。
また、まつは子どもが出来ない秀吉とねねのために、1歳の娘の豪姫を豊臣家の養女としました。
また晩年は一緒に温泉に行っていたことなどがわかっており、プライベートでも仲がよかったと言われています。
利家が豊臣家の家臣として大変重宝された理由の一つに、奥さん同士が仲が良かったから、という事情もあったのかもしれないですね。
子孫・家系図について
子供について
利家は正室であるまつ(芳春院)との間に2男9女をもうけています。また、側室との間にも何人かの庶子がいたと言われています。
嫡男の利長は加賀藩初代藩主となり、利家死後に家康と対立しますが結局は母・まつを人質として差し出し、開戦を免れています。
関ヶ原の戦いでは家康方について功をあげ、戦後に加賀藩を成立させました。
次男の利政は、利家の存命中は能登国七尾城の城主を務めました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属したため加賀の所領は兄・利長に渡されてしまいますが、大阪の陣では両陣営から誘いを受けつつも中立を決め込みました。
現代に続く子孫など
利家の死後、前田氏は翌年に勃発した関ヶ原の合戦において、2代目利長が家康率いる東軍に味方し、100万石を超える大大名となりました。
以後、前田氏は七日市藩、富山藩、大聖寺藩など分家を立て、その後3代利常が徳川秀忠の娘を正室に迎えてからは、江戸時代の前田家当主の半数以上が将軍家や徳川御三家、松平家などの徳川一門から嫁を娶り、将軍家である徳川家と親戚になります。
明治維新後前田家は公爵家となり、現在は第18代目である前田利佑氏が当主となっています。
前田利佑氏は日本郵船株式会社への勤務を経験し、宮内庁委嘱掌典職などに就いた経歴があります。