勝海舟とは?子孫や西郷隆盛、坂本龍馬との関係についても解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

明治維新を成し遂げた人物として西郷隆盛などが有名ですが、実は幕臣であった勝海舟も「江戸の無血開城」など非常に重要な役割を果たしているのです。

この記事では、勝海舟の生涯について、海舟をべた褒めした西郷隆盛や、海舟の弟子となった坂本龍馬との関係、また海舟の子孫や逸話などについて解説していきたいと思います。

勝海舟の生い立ち。剣術と蘭学を習得する

1823年、勝海舟は江戸本所亀沢町(現在の墨田区)に生まれました。海舟の家は、曽祖父・銀一が高利貸しで成功して以来、幕府の御家人・旗本の身分でしたが、叔父の屋敷や妻の実家の離れを間借りする貧乏な生活でした。

海舟は幼少期より島田虎之介に師事し、直心影流の免許皆伝となるほどの剣術を身につけます。

また、蘭学を学ぶために永井青崖へ師事し、この修行中に、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写し、1部は自分のために、1部は売って金を作ったという逸話があります。また、蘭学者・佐久間象山との出会いもありました。

 

老中・阿部正弘の目に留まり、長崎海軍伝習所へ入門

1853年、ペリーが黒船で来航し、鎖国状態だった日本へ開国を求めました。

これにより、幕府の決断だけで開国することに慎重だった当時の老中・阿部正弘は、諸大名から町人に至るまで、海防に関する意見書を広く求めました。

勝海舟も優れた意見書を提出し、それが阿部正弘に認められます。そして、念願だった幕府への役入りを果たし、長崎海軍伝習所へ入門します。

海舟はオランダ語も堪能だったため、長崎で海軍伝習所教頭となり、最新の学問や航海術を学びます。

 

「咸臨丸」の船長となり、アメリカへ!

1860年、アメリカと「日米修好通商条約」を結んで貿易を始めるために、日本の使節団がアメリカへ派遣されることになりました。勝海舟は、使節団を守るための軍艦「咸臨丸」の船長に任命されます。

ジョン万次郎や福沢諭吉らと共にアメリカへ向かいましたが、1ヶ月ほどの航海の間、海舟は船酔いで全く船長らしいことができず、福沢諭吉から叱責されていたようです。

アメリカの工業技術の高さに衝撃を受けた勝海舟は、日本にも海軍が必要だということを悟り、帰国後、将軍・徳川家茂に直訴して、神戸に海軍操練所を創設。そして幕府の海軍を統括する軍艦奉行に任命されることになります。

またこの時、坂本龍馬の懸命な働きもあって、海舟は神戸海軍塾という私塾も開設することができました。

 

坂本龍馬との関係は?

勝海舟と坂本龍馬は、簡単に言えば師弟関係にあります。

海舟がアメリカから帰国した頃、坂本龍馬は海舟と出会っており、世界情勢に通じ、海軍の必要性を熱く説く海舟に惹かれ、龍馬は彼に弟子入りしています。

龍馬は姉・乙女への手紙の中で、海舟を「日本第一の人物」と称賛しており、また、海舟が神戸海軍塾を開設する際、龍馬は海舟の手足となって働き、千両の運営資金を松平春嶽から借り入れるなど、海舟の私塾開設に大きく貢献しました。

海舟自身も龍馬を可愛がっており、龍馬は姉・乙女への手紙の中で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」とそれを誇っています。

その後も、勝の下で海軍操練所の仕事を続けるために再び脱藩しており、家族も同罪となるような重い罪を背負ってでも、海舟に心服していた様子が分かります。

江戸無血開城を成し遂げる

徳川慶喜大政奉還を行い、実質的な政権を朝廷に返還することが決定した頃、それに反発する旧幕府と新政府の間で戊辰戦争が勃発しました。しかし慶喜率いる旧幕府は敗れ、西郷隆盛率いる新政府軍は江戸を攻めようとしていました。

当時の江戸には100万人以上の人々が住んでおり、江戸が戦場となれば、多くの犠牲者が出てしまいます。それを防ぐため、幕府側の交渉役に任命された勝海舟は、新政府軍の西郷隆盛を懸命に説得し、寸前のところで江戸城への攻撃を止めることに成功しました。これにより、死者を出すことなく、江戸城の引き渡しが完了します。

この江戸無血開城は海舟の多大な功績と言えるでしょう。

海舟は、もし西郷らが江戸を攻撃してきた場合でも、江戸中に火をつけて町を焼き払い、江戸湾から船で避難民を救出するという作戦も考えていたようで、あらゆる場面を想定した戦略家であることが分かります。

 

西郷隆盛との関係は?

勝海舟が西郷隆盛と出会ったのは、西郷が第一次長州征伐をしていた頃です。

会談前、西郷は海舟のことを甘く見ていましたが、実際に話してみると、海舟の見識の深さやカリスマ性に驚き、「知略の深さが計れない人物で、実務においては佐久間象山を上回る傑物」として、西郷は海舟に惚れ込んでいました。

またその時、西郷は海舟から「藩の間で争うのではなく、世界に対抗するために各藩は協力すべき」という考え方を教えられ、長州藩への強硬策を止めました。

こういった経緯があったため、江戸無血開城の交渉の際に二人が再会したときは、勝の申し出を西郷は真摯に聞いていたと言います。勝に対する西郷の信頼の大きさの賜物ですね。

 

明治維新後の交流

西郷は明治維新後も海舟の別荘を訪れ、日本の行く末について語り合ったと言い、交流が続きました。

西郷が西南戦争で亡くなり、日本の逆賊としての評価受けていた時には、西郷の名誉回復のために奔走し、明治天皇から許しを得て、上野の銅像を建立するなどの支援をしていました。

 

勝海舟のその後

倒幕後、勝海舟は朝敵となってしまった徳川慶喜を赦免してもらえるよう働きかけ、徳川家を守ります。西郷の時もそうですが、海舟は自分の立場に関わらず人助けができる人情家だったようです。

明治政府の要職についてからは、有名な足尾銅山鉱毒事件での政府の対応を批判し、田中正造を支援していたりもします。

1899年、海舟は風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れ、最後は「コレデオシマイ」という言葉を残し、死去します。享年77歳でした。

 

勝海舟の子孫は?

海舟は正妻・民子と5人の妾の間に9人の子供を持っていました。海舟の子孫にはどのような人物がいるのでしょうか。

 

三女・逸子

三女の逸子は、専修大学の創立者である目賀田種太郎に嫁いだそうです。

 

フリーライター・高山みな子さん

海舟の玄孫に当たる高山みな子さんは、フリーライター・ガラス工芸家として活動しており、全国推奨観光土産品理事長賞受賞を受賞しています。

 

バイクの「カワサキ」の起源?勝精(かつくわし)さん

勝精(かつくわし)さんは徳川慶喜の孫で、勝海舟のひ孫(婿養子)にあたります。

オリエンタル写真工業、浅野セメントなどの重役を歴任したほか、彼が立ち上げた目黒製作所は、のちに川崎重工業に吸収され、現在のカワサキの起源とされています。

 

勝海舟の逸話

さいごに、いくつか伝わっている勝海舟の逸話を紹介しようと思います。

 

海舟は女好きで、正妻から同じ墓に入るのを断られた?

海舟は正妻の民子以外にも妾との間に子供を作っていましたが、驚くべきことに、その妾の中には海舟の使用人などもおり、正妻・民子と妾は海舟と一緒に同じ家に暮らしてました。海舟は女性関係においてはかなり奔放だったんですね。

その時は特に波風が立たなかったようですが、後年、民子は海舟と同じ墓に入るのを拒否していたそうです。民子が怒るのも無理はありません。

民子の死から10年後、最終的には、洗足池公園にある海舟の墓の隣に民子の墓が移されました。

 

海舟は大の犬嫌い?

海舟が9歳の頃、学問の稽古へ向かう途中、犬に襲われて睾丸に傷を負ってしまいます。その時は外科医に手術をしてもらいますが、命の保証はないと言われてしまいました。

70日間も寝込むほどの大怪我でしたが、最後は無事に回復することができました。しかし、それ以降、海舟は大の犬嫌いになってしまったそうです。