日本の私立大学の雄である慶應義塾大学の創立者、現在市場に出回っている一万円札の肖像画の人物と言えば当然、福沢諭吉です。
教育者としてだけではなく、蘭学者、思想家としても多くの功績や名言を残し、著書「学問のすすめ」は数多くの日本国民に読まれています。
福沢本人が書いていない「福沢心訓」と呼ばれる7ヶ条の教訓の謎に迫りながら福沢諭吉の生涯を振り返ってみたいと思います。
福沢諭吉の誕生
1835年(天保5年)1月10日、大坂堂島浜(現在の大阪市北区)で豊前国中津藩藩士・福澤百助(ふくざわももすけ)の次男として誕生しました。
父・百助は帆足萬里(ほあしばんり)などの儒学者に学んだ学者であり、兄・三之助(さんのすけ)も漢学者であったため、福沢諭吉が教育者、思想家になる素地はあったのかもしれません。
5歳の頃から漢学と剣術(一刀流)を学び始めますが、幼年期は全く勉強に身を入れず、いたずらっ子であったようです。
しかし、元服しても勉強出来ないのは世間体が悪いと思い直し、真面目に勉学に取り組むと「論語」「孟子」「史記」「老子」など漢書を読破し、勉強の傍らに居合術も修得しました。
1854年(安政元年)長崎に19歳で留学すると、砲術などの西洋軍制の本を読むためにオランダ語の勉強を開始、この長崎で大砲や黒船などに関する知識も身につけました。
適塾入門から江戸出仕
20歳になった福沢諭吉は江戸で勉強しようと留学を決意しますが兄に止められ、仕方なく大坂で蘭学者・緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた適々斎塾(適塾)に入塾します。
途中、腸チフスを患って一時中津へ帰郷しますが、1856年に兄の死に伴い家督を相続すると、再び大坂へ出て適塾で学び、22歳にして最年少で塾頭に指名され、オランダ語を始め化学、物理、医学を学び多くの科学的な実験も行いました。
幕末における幕府上層部による抜粋人事(無役の旗本・勝海舟の登用など)によって福沢諭吉も江戸へ出仕することとなり、とりあえず中津藩奥平家の中屋敷で蘭学塾「一小家塾」を開きます。
この一小家塾が後の慶應義塾の基礎となりました。
通じぬオランダ語、読めぬ英語への衝撃
一小家塾でオランダ語や医学を自ら学び、またこれを教えることで多くの塾生を世に出しますが、日米修好通商条約で外国人居留地となった横浜を1859年に訪れたとき、そこに溢れる英語の文字を見て衝撃を受けます。
オランダ語は全く通じず、居留地の看板の文字は全く読めず、世界を席巻しつつあった大英帝国の影響で世界の中心言語は英語へと変化していました。
福沢諭吉は必死に英語の習得を目指して幕府の蕃書調所へ入所するなど、多くの苦心を重ねて英語の習得を成し遂げて行きました。
この後、英語に理解ある福沢諭吉は幕府内で重宝されることになり、1860年2月10日(万延元年)軍艦奉行・木村芥舟(きむらかいしゅう)の従者として咸臨丸で渡米、アメリカ文化を吸収し多くの書物を買い込みました。
帰国後、購入した書物の一冊である広東語と英語の対訳本に日本語訳を付けた、福沢諭吉人生初の出版本「増訂華英通語」を出しました。
結婚とヨーロッパ視察
1861年(文久元年)中津藩士・土岐太郎八(ときたろはち)の次女・錦(きん)と結婚、諭吉より10歳下でしたが4男5女をもうけて夫婦仲は円満だったようです。
同年、文久遣欧使節に翻訳方として同行、香港では欧米列強の帝国主義を目の当たりにし、その後パリやベルリンなどヨーロッパ主要都市を訪問しました。
ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車など産業革命の息吹きを間近に感じて日本での迅速な洋学普及を痛感し、物理、地理書などを大量に購入して帰国します。
帰国後、アメリカ独立宣言を全文翻訳して著書「西洋事情」に掲載、郵便や銀行、病院などの制度の普及にも言及しました。
動乱の幕末から明治維新
諭吉がヨーロッパから帰国した1863年は過激な攘夷論が日本中で沸騰しており、同僚が襲われる事件も頻発し始めていました。
またこの年には薩英戦争が勃発し、諭吉は外国奉行の下で外交文書の翻訳などで活躍し、翌1864年(元治元年)には外国奉行支配調役次席翻訳御用として幕府に出仕、直参旗本すなわち幕臣となりました。
1867年(慶応3)には軍艦受取委員会の随行員として再び渡米、ニューヨークやワシントンDCを訪問、今回は紀州や仙台といった大藩から多額のお金を預かり、辞書、物理書、地図などの書籍を購入し、日本に帰国後「西洋旅案内」を執筆しました。
この年に徳川幕府は大政奉還を行い、翌年には王政復古の大号令が出され明治新政府が誕生しますが、福沢諭吉は再三の新政府への出仕要請を辞退し、教育活動に専念していきました。
慶應義塾の誕生と高等教育への貢献
1868年(慶応4)蘭学塾「一小家塾」を慶應義塾と改名し、仙台、紀州藩などから多くの藩士を受け入れ、江戸近郊で官軍と彰義隊の戦いが始まっても講義を続け、福沢諭吉は教育分野に傾倒していきます。
多くの門下生を輩出する慶應義塾でしたが、明治13年頃には政府の方針で教育の官立化や画一化が進み、慶應義塾は経営難に襲われ、優秀な門下生が東京師範学校(現在の筑波大学)などへ引き抜かれる事態にまでなります。
この資金難は島津家の援助によって持ち直し、士族出身以外の平民の学生が数多く入学するに至り、慶應義塾は黒字経営化して行きました。
福沢諭吉は官立学校だけでは多様な教育ができないと考え、多くの私学学校の設立や運営に尽力し、大阪商業講習所(大坂市立大学の前身)や商法講習所(一橋大学の前身)に門下生を教授として送り、専修学校(専修大学の前身)や東京専門学校(早稲田大学の前身)、英吉利法律学校(中央大学の前身)の設立を支援しました。
教育者以外の顔を持つ福沢諭吉
新政府誕生後、国会開設運動が起こると福沢諭吉はこれを支援し、大隈重信(おおくましげのぶ)、伊藤博文(いとうひろふみ)等から公報新聞の発行を依頼されます。
しかし、大隈と伊藤の政治的対立から新聞の発行が棚上げされると、福沢諭吉は日刊新聞「時事新報(後に現在の毎日新聞に吸収)」を明治15年3月に創刊します。
このような設立経緯のため、時事新報は福沢諭吉の政府に対する要求や批評を数多く掲載していくことになります。
政府が廃藩置県を行ったとき、この方策が不平士族を救うと福沢諭吉は考え、政策を断行した西郷隆盛を絶賛しました。
政府が後に西郷隆盛を追い込んで西南戦争を誘発した事に関して福沢諭吉は西郷隆盛を擁護し、政府を糾弾する内容を「丁丑公論」に記述しています。
この丁丑公論は西南戦争から24年後の1901年2月、時事新報に掲載されました。
また欧米列強から東洋諸国を守る必要性を常に唱え、朝鮮に関しては清国の影響力排除を強く訴え、対清主戦論者でした。
このため1894年(明治27年)の朝鮮出兵に関しては一貫してこれを支持し、時事新報で日清戦争を全面的に応援する記事が掲載されました。
福沢諭吉は新聞と言うメディアを使い、自分の考えや施策を世間に知らしめ、読者にその考えを広める思想家でもありました。
日本教育界第一人者の最期
1898年(明治31年)5月に慶應義塾を幼稚舍から大学までの一貫教育制に改編した直後の9月26日、福沢諭吉は脳溢血で倒れ、意識不明の重体となります。
この時はなんとか回復するものの、翌年8月にも脳溢血で倒れて意識不明となります。
病魔が体を蝕むなかでも福沢諭吉は教訓集である「修身要領」を完成させ、1900年(明治33年)2月24日の講演会で正式に発表しました。
しかし1901年(明治34年)1月25日脳出血で倒れ、2月3日には再出血し、そのまま回復することなくこの世を去りました。
享年66歳、7日に衆議院で哀悼の意を表する決議が満場一致で可決され、8日の葬儀では約15,000人が葬列に参加したと発表されました。
葬儀に際して献花、香典に関しては丁寧にお断りがされているなか、盟友であった大隈重信が泣きながら持ってきた花だけは家族が受け取ったそうです。
福沢諭吉の著書
学問のすすめ
1872年(明治5年)に初編が出版され、1876年(明治9年)の十七編により完結しました。
明治維新によって新しい価値観が生まれ、封建社会と儒教思想しか知らなかった日本人に法治主義、男女同権など民主主義国家における国民主権、自由、平等、独立を訴えた福沢諭吉の著書のなかで、もっとも有名な啓発書です。
心訓
福沢心訓と言われる7ヶ条からなる教訓集ですが、残念ながらこれは福沢諭吉が書いたものではなく、作者や製作された年月も不明とされています。
福沢諭吉が子息に遺した「ひびのおしえ」をもとに1955年頃から広まったとされていますが、いまだに真偽のほどは定まっていません。
西洋事情
福沢諭吉が1860年(万延元年)のアメリカ、1862年(文久2年)のヨーロッパ、1867年(慶応3年)アメリカと三度の海外渡航によって得た知識を紹介した本です。
政治、税制、国債、紙幣、外交、軍事など国家形体の紹介から、蒸気機関、電信機、ガス燈などの科学技術、さらに学校、図書館、病院、博物館などの社会システムまで、多岐にわたって網羅しています。
福沢諭吉がどれだけ西洋文化に興味を持ち、理解しようとしていたかが伺い知れる著書です。
福沢諭吉の名言
教育者らしく学ぶことに貪欲になるよう勧める言葉が多いですが、努力すること、誠実であることを求めるなど、日本の道徳教育の根幹をなす言葉も多いようです。
これは学問のすすめの冒頭の一節ですが、一般的には人間はみんな平等で、職業や性別などによって差別されることはないというようにと解釈されています。
しかし、されども今廣く此人間世界を見渡すに~と、そのあとに書かれた文章に繋がっており、全部を解釈すると「人間は生まれたときは皆平等だが、世間ではお金持ちと貧乏、偉い人そうでない人が存在する。これは勉強したかどうかによって生まれている」となります。
学ぶことによって生まれて以降の人生が決まるのであるから、勉強をおろそかにしてはならないという意味なのです。
ただ、福沢諭吉が明治初期から男女同権を訴えるなど、先進的な差別否定論者であったことは間違いのない事実です。
福沢諭吉の逸話
逸話①
適塾の二階に下宿していた頃、福沢諭吉は真っ裸、褌さえも付けずに生活していたそうで、また大変な酒豪でお酒を飲まない日はなかったとか。
そんなある日、少し酒が入った状態で、いつものように全裸で書物を読み耽っていると、下から福沢諭吉を呼ぶ声がします。
煩わしいと思って暫く知らぬ顔をしていると、何度も何度も繰り返し呼ぶので、福沢諭吉はすくっと立ち上がり、真っ裸のまま「騒がしく呼ぶのは誰か?」と階段を降りていくと、そこには師匠である緒方洪庵の奥様が。
下女が用事があって自分を呼んでいると思い込んでいた諭吉は、全裸で奥様の前に立ちはだかってしまったことで、言葉を失い、固まって暫く動けなかったそうです。
たぶん諭吉以上に緒方洪庵の奥様の方が目のやり場に困っていたと思いますが。
逸話②
1860年、福沢諭吉が最初の渡米から帰国した時、軍艦奉行・木村摂津守の家臣達の出迎えを受けました。
その時、福沢諭吉は家臣の一人に「日本では何か大変なことが起こりましたか?」と尋ねました。
家臣が「はい、大変なことが起こったのです。実は・・」と言いかけたのを遮って、福沢諭吉は「当てて見せよう。掃部頭様(井伊直弼のこと)が水戸の浪人に襲われましたか」と言うと、家臣は相当に驚いたそうです。
1860年3月、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が水戸脱藩浪士らに襲撃され落命した、桜田門外の変をズバリと言い当てたのです。
ただ、当時の世情でいずれは井伊直弼が襲われるということは知識人の間では話題にはなっていたそうです。
福沢諭吉まとめ
日本の私立大学のなかでもっとも入学するのが難しいと言われている慶應義塾大学の創始者であり、早くから幼児教育の必要性と幼小中高一貫教育の導入を行った日本教育界の第一人者と言われる福沢諭吉。
教育者以外にも評論家、著述家、思想家として文化や政治にも大きな影響を与えた人物です。
政治家として為政者となるわけでなく、経済人として事業を起こすわけでもなく、常に冷静な目で時代の流れを見つめ続け、的確な判断と論評を文章によって発信し続けました。
このような立場であったからこそ、現代では当たり前の教育を受ける権利や男女同権などを普通に語り、人間の自由・平等・独立の重要性を訴え続けました。
豪快にして、粗雑な一面をも持ち合わせた偉大な教育者は、今なお活字の中で現代の我々にも学ぶことの重要性を訴え続けてくれています。