西郷従道の名を聞いても知っている人は少ないかもしれませんが、西郷隆盛の弟と言えば、興味を持つ人も多いのではないでしょうか。
実はこの西郷従道、日本が日露戦争に勝利した基盤を築いたと言える、とてつもない大人物なのです。
この記事では西郷従道の子孫や家系図、西郷従道邸や兄の西郷隆盛との関係、また海軍での活躍について、略歴を踏まえながら紹介していこうと思います。
西郷従道はどんな人生を送ったのか?
西郷従道は1843年6月1日、現在の鹿児島県にて、三男として鹿児島藩士である父の西郷吉兵衛のもとに生まれます。兄の隆盛とは15年の年齢差があり、ほとんど親子といえるような兄弟関係ですね。
最初は茶坊主として働くものの、尊王攘夷活動に励むように
西郷従道は幼い頃より、主君の島津斉彬が茶道の接待をする時にお世話をする茶坊主として仕えていました。
しかし後に還俗してからは、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名し、西郷隆盛や大久保利通らが結成した島津斉彬を信奉する精忠組に加わり、尊王攘夷活動を行うようになります。
その活動の最中、寺田屋事件によって薩摩藩から弾圧を受けましたが、西郷従道はまだ年少ということで帰藩謹慎処分に。
その後も血気盛んな活動は止まず、薩英戦争の際には決死隊に志願したり、戊辰戦争の際には鳥羽・伏見の戦いで重傷を負うなど、積極的に戦地へ飛び込んでいきました。
軍人としての本格的な経歴を積んでいくことに
明治維新後、新政府の太政官を務めることになります。その際、自分の名前を太政官として登録する時に、役人が「隆興(リュウコウ)」を「ジュウドウ」を聞き間違えてしまい、そのまま「従道(ジュウドウ)」として記録されてしまいました。
西郷従道自身も特に気にせずその名前を使ったため、「従道」として定着したようです。
従道は後に「国軍の父」と称される山縣有朋と共に、ヨーロッパへ渡航して軍制を調査し、ロシアでは皇帝アレキサンドル2世とも謁見しています。
従道が陸軍少将になった後、明治6年には、武力をもって朝鮮を開国しようとする「征韓論」を巡って、当時の留守番政府の首脳であった西郷隆盛と政府が対立します。
その際、薩摩藩出身の多くの人々が西郷隆盛に従いましたが、西郷従道は隆盛の「おはんな、東京に残れ」という言葉に従い、明治政府側として残っています。
政府の薩摩閥の中心人物となり、初代海軍大臣へ
西南戦争で兄の西郷隆盛が亡くなり、明治11年には大久保利通が暗殺されると、同年末には陸軍卿となり、政府内では薩摩閥の重鎮として手腕を発揮します。
その後もどんどんと高い地位に登りつけ、参議・農商務卿、開拓使長官を務めます。そして明治17年の華族令制定に伴い、維新時の功績によって伯爵を授けられることに。
翌年には伊藤博文総理大臣の元、陸軍の出身ではありながら、初の初代海軍大臣に任命されています。
従道の先見の明が日露戦争での大勝利に貢献
1891年、西郷従道は、後に日露戦争で重要な働きをする山本権兵衛大佐を海軍省官房主事に抜擢します。
また、1898年には海軍の軍人として初となる元帥に昇格します。この頃、明治天皇からは内閣総理大臣としての職を再三押されたようですが、兄の西郷隆盛が国賊の汚名に着せられていたため、断り続けていたそうです。
そして、南下政策をとるロシアとの戦いに備え、戦艦・三笠の建造に必要となる資金をかき集め、完成させます。その際、本来の軍事費の枠を超えて国家予算を流用してまで資金を集めたそうで、戦艦・三笠の建造における従道の並並ならぬ決意を感じさせます。
また、イギリスと組むことでロシアに対抗することを主張し、日英同盟にも賛成することで、着々とロシアとの戦争に備えます。
しかし、西郷従道は1902年7月18日に胃がんで死去。
そのため、1905年の日露戦争の大勝利を見届けることはできませんでしたが、その結果に結びつく数々の働きをした功労者と見ることができるでしょう。
部下から慕われる西郷従道という人格
山本権兵衛という人材を登用した西郷従道ですが、彼が思う存分手腕を発揮できたのも、有能な部下に仕事を任せて自分は口を出さず、全ての責任は自分が取るという、西郷従道の度量の深さがあってこそだと言われています。
そのため、部下からの信頼はとても厚く、大変慕われていたようです。
また、従道が内務大臣をしていた時代に、訪日中のロシア皇太子が襲撃される大津事件が発生していますが、将来的なロシアからの侵略を憂慮した従道は、犯人の死刑を大審院に強く求めます。
元来は温厚な従道が大審院長を恫喝してまで死刑を求めた背景には、日本を思う、強い愛国精神があったものと思われます。
西郷従道と兄・西郷隆盛の関係は?
西郷従道の人生を追っていく中で、やはり気になるのは兄の西郷隆盛との関係についてですね。
記事の中でも述べていますが、従道と隆盛の関係が決裂するのは、明治6年に起こった隆盛と政府による争いです。この時、従道は政府側に付いて、隆盛と敵対する関係となります。
しかし実際には、隆盛の方から政府側へ残るように従道に諭したとありますし、隆盛が亡くなった際に、明治天皇から従道に対して「兄の隆盛は惜しいことをした」という隆盛の死を悼む場面があったことから、従道と隆盛の二人の関係は決して悪くなかったと考えられます。
また、西南戦争の時には従道は前線で隆盛と戦わず、東京に留守役として残っていることから、兄に対して銃口を向けたくなったというような心情を察することができます。
いずれにしても、敵対関係というのはあくまで表面上だけで、実際は兄弟としてしっかりとした信頼関係が結ばれていたのではないかと思われます。
西郷従道邸とは?
西郷従道と言えば、東京都目黒区上目黒にある木造総二階建銅板葺の洋館・「西郷従道邸」が有名ですね。
従道は国内で海軍や農商務等の大臣を歴任し、明治維新の中枢で活躍した人物だったため、在日外交官との接触も多かったようです。そのため、「西郷山」という広い敷地内に本格的な洋館である西郷従道邸を1877年に建築し、接客の場として活用したそうです。
この西郷従道邸は国の重要文化財として保存されています。
西郷従道の子孫や家系図
西郷従道の子孫や家系図について解説していきたいと思います。従道は7男4女の子供達がおり、大所帯でした。
その中でも特に興味深い子孫たちを抜粋して紹介していこうと思います。
長男・西郷従理(さいごうじゅうり)
西郷従理(じゅうり)は従道の長男として生まれました。
従理は駐日ロシア公使シャール・ド・スツルヴェに従って7歳で渡露しており、皇弟アレキシス親王に大変可愛がられ、正教会の洗礼まで受けたそうです。
しかし、アメリカのワシントンで腸チフスのため若くして亡くなってしまいます。享年10歳でした。欧米視察にきていた従叔父の大山巌が従理死去の急報を受けて駆けつけ、従理の枕頭で号泣したとされています。
大山巌は西郷従道と妻の清子へ従理の最期の様子を伝え、その際、従道と清子は「あいがと、あいがと」と泣きながら大山巌に感謝したと言います。
次男・西郷従徳(じゅうとく)
従道の次男・西郷従徳(じゅうとく)は陸軍士官学校を卒業後、陸軍少尉任官されています。最終階級は陸軍大佐です。
西郷従吾(じゅうご)
従徳の息子に西郷従吾(じゅうご)という人物がいます。従吾も陸軍士官学校を卒業しており、父の従徳と同じく、最終階級は陸軍大佐となっています。
西郷從節(さいごうじゅうせつ)
また、従吾の息子・西郷從節(さいごうじゅうせつ)は、富士通、富士通総研、ファミリーマート取締役等を経て、株式会社イープラット代表取締役などを務めました。
三男・西郷豊彦(さいごうとよひこ)
三男・西郷豊彦(とよひこ)は陸軍士官学校を卒業したのち、少将を経て貴族院議員となっています。
西郷真悠子(まゆこ)
また、豊彦のひ孫に西郷真悠子(まゆこ)という女優がおり、NHK大河ドラマ「西郷どん」で西郷従道の娘・西郷桜子役を演じるそうです。
他にも多くの知識人を輩出?
西郷従道の子孫の一部を紹介しましたが、実は他にも京都大学名誉教授や法政大学教授、京農業大学理事長を務めている人物がおり、従道の子孫は社会的に重要な地位を歴任した人たちが多いことが分かります。
さいごに
この記事では西郷隆盛の弟である西郷従道について書いてきましたが、いかがでしたでしょうか。
従道も、兄に負けず劣らず、戦乱の時代を活躍してきた大人物であることが分かりましたね。
日本を守るために人生を賭けてきたその生涯に敬意を表したいですね。