豊臣秀頼といえば、豊臣秀吉の息子であり、母親は日本三大悪女のうちの一人である淀君(茶々)として有名です。秀吉亡き後には大坂の陣で徳川家康に敗れ、23歳という若さで自害する短い人生だった徳川秀頼ですが、実はさまざまな謎がある人物です。
今回、豊臣秀頼の生涯をみて、囁かれている様々な謎「当時周囲を驚かせた身長」「本当の父親は秀吉ではない?」「最後実は助かっていた?」「天草四郎との関係性」について、紹介していきます。
豊臣秀頼の生涯
生まれと育ち
豊臣秀頼は豊臣秀吉の次男として生まれ、幼名を拾丸といいました。母は日本三大悪女として有名な側室淀殿(茶々)であり、大坂城で出生したと伝わっています。翌1594年(文禄3)12月には新築された伏見城に移され育てられました。
豊臣秀吉の愛着ぶり
57歳にして実子を得た秀吉の愛育ぶりはひとかたでなく、また周囲からも秀吉の愛児ということで特別に扱われていました。その様子が分かる事柄として、1595年3月にはその伏見移居の祝儀として朝廷から勅使が遣わされ、太刀(たち)・馬を下賜されたという話もありました。こうしたこともあり同年7月関白であった豊臣秀次が自刃してからは、豊臣家の世嗣と目されました。
秀吉は拾丸の将来を非常に心配し、傅役にはあの加賀百万石で有名な前田利家を選び、また徳川家康、毛利輝元らの大名には血判の誓書を出させて、拾丸に対して忠誠を誓わせました。それでも豊臣秀吉は心配だったのか翌1596年(慶長1)正月にも再度この誓書提出のことを行わせています。
「秀頼」へと改名
1596年5月、豊臣秀頼は父豊臣秀吉に伴われて参内し天盃を賜り、従五位下に叙され、同12月には秀頼と改名しました。1597年9月禁中において元服し、従四位下・左近衛権少将に叙任され、その翌々日には左近衛中将に進み、1598年4月にはわずか6歳にして従二位・権中納言となりました。
豊臣秀吉の死と豊臣家没落の影
1598年、重態となった秀吉は再三諸大名に血判の誓紙を書かせ、秀頼を助けて忠誠を尽くすことを誓わせましたが、秀吉が死去するとそれも反故同然とされます。
そして1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍大敗すると、豊臣氏は摂河泉約70万石の一大名に転落させられました。
そして滅亡へ
豊臣秀頼はその後1603年4月内大臣となり、同年の7月には徳川秀忠の娘である千姫を娶り、1605年4月右大臣に上りますが、政治的大勢の中で豊臣氏の退潮は覆うべくもありませんでした。
1614年11月大坂の役(冬の陣)が起こり、1615年(元和1)5月再度の大坂の役(夏の陣)で大坂城は徳川軍の総攻撃を受けて落城。豊臣秀頼は生母淀殿とともに自刃し、豊臣氏は滅亡しました。
身長6尺5寸の大男
豊臣秀頼は、身長6尺5寸(約197cm)もあったという記録があります。室町時代の男性の平均身長が159cm、江戸時代前期が157cmとされているため、当時の人々から見れば大変な大男であったと言えるでしょう。また慎重に伴い体重も重かったらしく、豊臣秀頼の身長を197cmと記載した書物には、体重は43貫(約161kg)と記載されています。現代で例えるなら「横綱」という方がしっくりくるかもしれません。
はじめ徳川家康は自分の娘を嫁に出していることから、豊臣家を完全に滅ぼすつもりはなかったようです。しかし二条城でこの豊臣秀頼と会見し、さらに豊臣秀頼自身も聡明な人物であったことから考えを改めたということが分かります。
父親は誰か
豊臣秀吉が織田信長から「サル」と呼ばれていたのは有名です。それは豊臣秀吉の風貌が身長140cmから150cm程度であり小さかったからと言われています。しかし豊臣秀頼は恰幅良く、大変背が高いという事実には疑問を持たざるを得ません。
淀殿のみ身籠った謎
豊臣秀吉と正室・寧々の間には子がおらず、また大坂城には16人の豊臣秀吉の側室が暮らしていました。しかし一人も子を授かったものはいません。ただ唯一子供を授かったのが淀殿です。秀頼には幼くして亡くなった兄がいますが、その兄も淀殿の子です。つまり何故か淀殿だけが二回も秀吉の子を身籠ったのです。
当時の人々も本当の父親は誰かと噂をしていたようであり、諸大名や武士の逸話を集めた「明良洪範」には父親は大野治長であると書かれているそうです。明良洪範だけでなく「多聞院日記」、「看羊録」、「萩藩閥閲録」にも淀殿と治長の密通が記載されています。ただし、これらは当時噂された確証の全くないものであり、信憑性は非常に低いです。
身長が高い理由
淀殿の父は浅井長政です。浅井長政も大男で有名で、180cmもあったとされています。それだけでなく茶々の母であり浅井長政の妻お市も身長165cmありました。浅井夫婦はともに平均身長を大きく上回る体型をしていたようです。それに似たのか淀殿の身長は168cmだったそうです。このことから母親側の遺伝子を濃く受け継いだと考えれば、秀頼の大きい身長にも理解ができます。
現在では真偽は定かではありませんが、身長が違うだけでは豊臣秀吉が父親ではないということは言えないでしょう。
豊臣秀頼の最期と墓
豊臣秀頼は大坂城落城の際、実母淀殿と共に自刃したとされます。淀殿の命で放たれた炎が消え、東軍が踏み込むと、そこには真っ黒になった骸が転がっており、男女の区別さえつかず、ましてやどれが豊臣秀頼のものか判別することはできなかったといいます。このことが秀頼生存説を生み出すこととなったのです。
その後すぐに、生き残った豊臣秀頼は薩摩へ逃げたのだという噂がまことしやかにされました。京都では「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」というわらべ歌までつくられたそうです。
このことは他にも、平戸のイギリス商館長・リチャードコックスが日記に「秀頼様は薩摩あるいは琉球に逃れたとの報あり」と記しており、『真田三代記』にも幸村と幸村の嫡男・大助、さらには長宗我部盛親や後藤又兵衛と共に豊臣秀頼が薩摩に下ったと記されています。
また鹿児島市の谷山には豊臣秀頼の墓と伝えられている宝塔もあります。
しかし墓の下からは豊臣秀頼に関するものが何も出なかったということで、初代谷山氏の墓とも考えられているようです。
天草四郎との関係性について
日本史上最大級の一揆である島原の乱。島原の乱の一揆側のリーダーが天草四郎時貞という人物です。さて、この天草四郎ですが、彼こそが九州に落ち延びた豊臣秀頼の遺児だという説があります。鹿児島では天草四郎に「豊臣秀綱」という名前があったと伝えられており、それを記す寺院の古文書も存在したと言います。しかし古文書自体は現存せず、言い伝えのみ残っている形となっています。
秀頼が天草四郎の父であるとされる最大の根拠は、戦時の馬印です。馬印とは大将の所在を示すために立てられるのぼり・目印です。豊臣秀頼の父である、豊臣秀吉の使用していた馬印が「千成瓢箪」であることは有名ですが、天草四郎もこれと同じ馬印を使っていたと言われています。
これも伝承でしか伝わっていないため、真偽をはっきりさせることは叶いませんが、もし、これらが事実であれば、島原の乱は「関ケ原の再現」ともいえるかもしれませんね。
さいごに
今回は豊臣秀頼に関してまとめてみました。豊臣秀頼の伝承にはまだまだ様々なものが残されています。父親の豊臣秀吉だけでなく、豊臣家がその後どうなったかに焦点を当ててみるのも面白いかもしれません。