細川忠興は永禄6年(1563)から正保2年(1646)、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主、肥後熊本藩主を勤めた人物です。
足利家支流の細川家出身で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の有力者に仕え、正室には今では「細川ガラシャ」の名前で呼ばれることの多い、明智光秀の娘である玉子を迎えました。
そんな細川忠興の生涯、忠興が愛した刀、伊達政宗との関係性、また「ヤンデレ」といわれる逸話を紹介していきます。
細川忠興の生い立ち
細川忠興は永禄6年(1563)11月13日、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として誕生し、幼少期を京都で過ごします。
永禄8年(1565)に起きた三好義継、松永久通、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らによって室町幕府第13第将軍・足利義輝らが殺害された永禄の変以降は、父藤孝や明智光秀らは、織田信長を頼り、殺害された足利義輝の弟、足利義昭を第15代将軍に擁立しました。
しかし信長と足利義昭が対立し、父・藤孝や明智光秀は信長に仕え、忠興は信長の嫡男・信忠に仕えることとなります。
初陣
その後、織田家に仕えるようになってから忠興は多くの功績を残して行きます。
忠興は天正5年(1577)15歳の時、織田信長と豊臣秀吉の紀伊への侵攻である紀州討伐に加わり初陣を飾りました。また同年、信貴山城の戦いでは大和片岡城を落し、信長に直筆の感状をもらいます。
玉子(ガラシャ)との結婚
初陣を飾った翌年の天正6年(1578)には信長の仲介を受けて、明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)を正室として迎えました。
その後、天正7年(1579)には建部山城城主の一色義道を滅ぼし、翌年天正8年(1580)父・藤孝は功により丹後南半国の領主となります。
本能寺の変
天正10年(1582)6月、妻・玉子の父である明智光秀が本能寺の変を起こし、信長を襲撃、殺害しました。
光秀は本能寺の変後、忠興と父藤孝を自分の味方につけようとしますが主君を殺害した光秀の誘いを忠興、父藤孝は拒否します。また光秀の娘であり忠興の妻玉子を、父、藤孝と夫、忠興は約2年間丹後国に幽閉しました。
その間、光秀は忠興、父・藤孝を味方につけられなかったことにより山崎の戦いで戦死してしまいます。
この年で、忠興は父・藤孝が隠居していたため丹後南半国が譲られ、丹後宮津城主となりました。
豊臣秀吉に仕える
本能寺の変後、信長没後は、忠興は豊臣秀吉に仕えることとなりました。
天正12年(1584)の小牧、長久手の戦いに参加し、天正15年(1587)九州征伐にも出陣、またこの年には妻、玉子はキリストの洗礼を受けたとされ、洗礼名をガラシャと受けます。(以下、ガラシャと称する)
天正18年(1590)には小田原征伐に従軍。
慶長3年(1598)8月に秀吉が死去すると、秀吉の家臣・石田三成らと加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らが秀吉の死後の政権をめぐる対立をおこし、慶長4年(1599)に反三成らとともに三成の襲撃に加わることとなります。
関ヶ原の戦い、妻細川ガラシャの自害
慶長5年(1600)、総大将・毛利輝元と宇喜多秀家、石田三成らを中心に結成された西軍と徳川家康を中心に結成された東軍の美濃国を戦場とした関ヶ原の戦いが始まり、忠興は徳川家康の誘いを受け東軍に入る事を表明します。
戦いのさなか、大阪城にいた妻・ガラシャは西軍の襲撃を受け、西軍はガラシャに人質になるよう脅迫しますが、ガラシャはそれを拒み、自害することを選びました。
この関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利し忠興は、首級136を上げたとされています。
その後慶長16年(1611)3月24日、伏見城にいる徳川家康に会うため上洛するも、持病を持っていた忠興は病に倒れます。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣にも参戦しますが、元和6年(1620)病気のため、忠興の三男、忠利に家督を譲って隠居することとなりました。
出家の際は三斎宗立と号し、戦とはかけ離れた生活を送ることとなります。そして正保2年(1646)、八代城で忠興83歳にしてその生涯を閉じました。
その際、忠興は「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れなかったのではないでしょうか。
細川忠興の愛した刀
細川忠興は数多くの戦に参戦しており、そのためか、自身の使用する武器には大変興味を持っていました。
さまざまな武器を考案し、機能性や外装にこだわった武器の様式を成立させたようです。
その中でも忠興の所持していた刀「歌仙兼定」には恐ろしい逸話が残されています。
愛刀「歌仙兼定」の逸話
この刀は美濃国で活躍した刀匠、二代和泉守兼定によって作刀とされていますが、和泉守兼定についての生涯や師匠がはっきりと分かっておらず、定かではありません。
刀の名前につけられている「歌仙兼定」の名前の由来には、おそろしいエピソードが残されています。
細川忠利の家臣の補佐が悪く、その際、家臣36人を忠興はこの刀で切りつけてしまいました。その時に切りつけた36人の数から平安時代の優れた和歌を集めた三十六歌仙にあやかり、「歌仙兼定」と名前が付けられたとされています。
細川忠興はヤンデレ?
「ヤンデレ」とは現代でよく使用される言葉の1つとされ、意味としては気が病んでしまうくらいの愛情を持ち、束縛や依存といった愛情表現をしてしまう際に用いられる言葉です。
忠興は妻である細川ガラシャのことをとても愛していました。しかしその愛情は「ヤンデレ」と言われても過言ではなく、さまざまなエピソードが残されています。
束縛
ガラシャの父明智光秀による謀反が行われた本能寺の変。ガラシャは父の謀反により周囲の目は反逆者の娘と向けられるようになりまったので、当然、信長に仕えていた忠興、細川家の立場は危ういものとなります。
そこで細川家や周囲の関係者は忠興にガラシャとの離縁を勧めます。しかし忠興は離縁をせず、周囲に離縁したと見せかけ約2年もの間、ガラシャを幽閉することにしました。
妻を愛するあまり、ただ手放したくないだけか、反逆者の娘としてのガラシャを守るためかは定かではありませんが、2年の幽閉は長すぎではないでしょうか。
嫉妬
ガラシャを愛するあまり庭師を殺害した逸話も残っています。
庭の手入れをしていた庭師が、居室にいるガラシャの姿に目を留めました。ガラシャは戦国一の美女ともいわれており、目を留めても仕方がないかもしれません。
そこにいた忠興は目を留める庭師を目撃し、妻に目を留めていたことに腹を立て庭師を殺害してしまいました。
嫉妬のあまり殺害までしてしまったのかは定かではありませんが、忠興のガラシャに対する愛情は「ヤンデレ」と言えるのではないでしょうか。
伊達政宗との関係
伊達氏の17第藩主で、独眼竜の異名を持ち細川忠興と同時期に活躍した戦国大名、伊達政宗。
伊達政宗は非常に筆のまめな武将であり、多くの手紙が残されています。その中にも忠興との文通が残されており、忠興との関係性がうかがい知れます。
文禄3年(1594)に書かれたとされる伊達政宗から忠興への手紙には自筆で「明日太閤様伏見へ御上洛」と書かれてあり、上洛を知らせるための手紙となっています。
また忠興は伊達政宗に天下の名香「白菊」を譲り、伊達政宗はその名香を「紫舟」と名付け家宝としました。
他にもさまざまな関係性を知る逸話が残され、伊達政宗と細川忠興の関係は深いものがあったといえます。
キリシタンであった細川ガラシャ
細川忠興の妻細川ガラシャは明智光秀の娘で、天正6年(1578)に信長の仲介を受けて、忠興の妻として迎えられました。
本能寺の変後は「反逆者の娘」として目を向けられ、約2年の間幽閉されます。
本当なら殺されてもいいはずの反逆者の娘、ガラシャは殺害も離縁もされることなく、天正14年(1586)には秀吉に大阪の細川屋敷に戻る事を許されました。
この理由についてガラシャは戦国一の美女と資料に残されていることがあり、女好きの秀吉が、自分の近くにガラシャを置いておきたかったから大坂に連れ戻したのではないかという説があります。
キリシタンとなる
ガラシャがキリストの洗礼を受けたのは、天正15年(1587)忠興が九州征伐のため九州へ出陣している間のことです。
ガラシャの身分の高さから一度で洗礼を受けることはできませんでしたが、その間にもキリストの書物を読むことによって信仰心を高めていました。
そして九州征伐のために九州にいる秀吉がバテレン追放令を発令したため、自邸で密かにマリアからの洗礼を受けここでガラシャというクリスチャンネームを受けます。
もともと禅宗を信仰していたガラシャが改宗に至った理由はあきらかにはされていませんが、キリシタン大名である高山右近と夫・忠興との関係性は深く、そのため高山右近からキリストの信仰に対する影響を受け改宗したのではないでしょうか。
ガラシャの最期は慶長5年(1600)のことでした。関ヶ原の戦い最中、西軍の石田光成がガラシャを人質に取ろうとするも、ガラシャは拒みます。その翌日西軍の三成の兵によって屋敷が囲まれたため、自害を選択しました。
しかしキリスト教徒は自殺を禁じています。そのためガラシャは遺体が残らぬよう屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自害したとされ、ガラシャの悲運な人生はバロック・オペラの演目として、ヨーロッパでも紹介されています。