久坂玄瑞の生涯とは?子孫や名言、坂本龍馬との関係についても解説!

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大河ドラマ「花燃ゆ」で文の最初の夫であった久坂玄瑞。

文の夫であり、吉田松陰の義弟で愛弟子、そして長州藩の尊王攘夷運動のリーダー的存在でもありました。最期は禁門の変で志半ばにして、25歳の若さでこの世を去ってしまいます。

そんな若き革命家、久坂玄瑞の生涯、子孫、名言、坂本龍馬との繋がりなどを紹介していきたいと思います。

久坂玄瑞の生い立ち

1840年(誕生日不明)、久坂玄瑞は、長門国萩平安古(現・山口県萩市)の長州藩医・久坂良迪と富子の三男として誕生しました。幼名は秀三郎、諱(実名)は通武(みちたけ)です。

師であり、義兄であった吉田松陰からの書状には、実甫、義助と書かれていることが多かったようです。

 

天涯孤独となるも学問に没頭する

玄瑞の家系は早世な家系と言えるでしょう。14歳の時、嘉永6年(1853年)に母富子を亡くし、続いて翌年2月に兄・玄機、そして3月に父も亡くなります。

そのため、玄瑞は15歳で家督を継ぐこととなります。家族の早世に泣き暮らすのではなく、幼名から名も改め、玄瑞は頭を丸め猛勉強を重ねる決心をし、藩医になるべく藩の医学所である好生館に入塾します。

好生館には特待制度があり成績優秀者には寄宿を提供していました。玄瑞も猛勉強して特待制度を利用していたので、相当に優秀だったことがわかります。

しかし、父の友人や師事していた僧侶、月性の藩医としての活躍の期待とは裏腹に、「藩医となる決意はしたが、私の学問は患者への処方ではなく、天下に対しての処方である」という思いが強かったと言われています。

尊敬していた兄、玄機に影響され医学以外に兵学そして国防に強く興味をもっていたことがわかります。

 

九州遊学へ

安政3年(1856年)信頼を寄せていた藩医・中村九郎の勧めがあり、3ヶ月の九州遊学に出ます。そこで、尊王攘夷派で名が知れ渡っていた肥後藩士・宮部鼎蔵を訪ねます。

宮部鼎蔵は吉田松陰九州遊学時からの知り合いで、脱藩騒動の東北視察を共にし、松陰が刑死するまで付き合いが続いた松陰の親友です。

玄瑞はこの宮部鼎蔵から、吉田松陰の元で学ぶことを勧められます。玄瑞と松陰の家は直線距離で1里半ほど離れていたというので、今でいえば隣町くらいの距離です。

玄瑞は長州に帰藩早々、松陰とはいかほどの人物なのかと自分の尊王攘夷の決意を書状にして生涯の師となる吉田松陰へ送ります。

松下村塾へ入塾

九州遊学からの帰藩後に玄瑞が松陰へ送った書状の内容は、この当時の攘夷を唱える若者にありがちな短絡的で過激な「即刻、切り捨てるべし!」のような内容で、入学を希望するも松陰には一喝されてしまうような内容でした。

この頃の松陰は、佐久間象山(しょうざん)の教えを支持していましたから、短絡的な若者の意見はもっとも嫌っていました。ですので、松陰はしっかりと反論する書状を返します。

しかし、松陰という人物は根からの教育者で先生気質。人を良く試し、人の良い所を伸ばす能力に長けていたことでも知られています。こういう書状をよこしてくる者は薄っぺらい輩が多いもの、論破されたら再度書状を送ってこないのが常だったため、再度送りつけてきたら、その時はどのような人物か見定めるためにもじっくりと手紙で討論しようではないかと考えていたようです。

玄瑞は松陰の目論見通り書状を送り返してきました。玄瑞は自分の知識と思う限りの言葉で松陰に食って掛かりましたが、松陰に論破され、自分の未熟さを思い知ることになります。

書状のやり取りは数回と続き、ようやく玄瑞は松陰の弟子として入門を許されました。この時、玄瑞18歳。晴れて松下村塾塾生となったのです。

 

吉田松陰の妹・文と結婚

玄瑞は松下村塾内でも群を抜いて頭角を現し、師・吉田松陰からの信頼も相当なものになっていました。松陰は玄瑞の事を「防長第一流の人物」であると評し、双璧と言われた高杉晋作と並び、常に褒めたたえ、晋作と切磋琢磨させていたくらいです。

ついには家族思いで妹贔屓である松陰から、妹・文との縁談を勧められるまでになります。事実上の塾の跡継ぎ、自分の継承者と見定めたのです。

しかし、玄瑞は結婚に躊躇していました。その理由が、文の「容姿」だったというものです。あまり好みではないため、躊躇している事を先輩である中谷正亮(なかたにしょうすけ)に伝えると「お前は容姿で妻を選ぶような奴なのか!」と説教されて、その場で結婚を承諾したというのです。

とはいえ無事に結婚が決まり、玄瑞と文は安政四年(1857年) 12月5日に結婚しました。玄瑞18歳、文15歳でした。

ただし、二人は結婚当初から単身赴任の家庭でした。玄瑞は文と結婚後の安政5年(1858年)2月ごろから京都、江戸と遊学し、一時は脱藩もして京都、江戸、長門下関などを拠点に、精力的に尊王攘夷の為同士と交流していきます。

結局、この単身赴任のような状況は、玄瑞が自刃する時まで続きます。

 

師・吉田松陰の死

血気盛んに尊王攘夷を唱えて精力的に活動していた玄瑞ですが、義兄である師・松陰をめぐる状況は大変な事態になっていました。

松陰の思想は野山獄の獄中で没頭した水戸学の影響を受けて、尊王攘夷の義を持ってすれば、放火も殺人もしかたなしという過激な思想に変わっており、幕府の老中暗殺計画を実行しようと藩にも協力を仰いだのです。

藩として松陰の命を守る為もあり、野山獄へ再投獄するのですが、時代の流れを止める事ができず、幕府大老・井伊直弼が主導した安政の大獄に連座する形で刑死されます。その死後から松陰の遺志を継ぐかのように玄瑞も強硬な攘夷論者となり、尊王攘夷運動の先陣に立ち猛進していきます。

 

玄瑞の尊王攘夷運動

吉田松陰が亡くなってから、玄瑞の尊王攘夷運動は激しさを増していきます。玄瑞が行った活動について、詳細に解説していきます。

 

開国派・長井雅楽の暗殺計画

藩の目付である開国論者の長井雅楽(ながいうた)に対しての反目と、師・吉田松陰の江戸召喚に長井が何もしなかったことに対する恨みもあり、玄瑞は前原一誠、高杉晋作らと一緒に長井雅楽の暗殺を計画します。

結局、この計画は実行に至りませんでしたが、玄瑞は桂小五郎と一緒に、周布政之助(すふまさのすけ)の説得に成功し、周布を反長井派に転じさせます。

また、尊王攘夷運動の資金を捻出する目的で一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)を発案して取り掛かります。これは、師・吉田松陰の本を写本して売り、資金に充てるというものです。

 

長井が航海遠略策を提案

玄瑞らが活動している間も、長井は公武合体に向けて幕府と朝廷の間を奔走し、自らの勧める航海遠略策を推進するために藩主・毛利慶親(もうりたかちか)の出府を促しました。

そこで、玄瑞は藩主出府を阻止しようとしますが、無断で任地を離れた罪で逆に逼塞(ひっそく)処分となり萩に戻らされます。結果、長井が幕府へ正式に航海遠略策を建白し、長井は中老に昇進します。

 

玄瑞が長井を失脚させる

玄瑞は松陰の教えである「草莽崛起(そうもうくっき)」のもと、全国の志士達とも連携し、土佐藩の武市半平太や薩摩藩の西郷隆盛など志士達と謀議を重ね、藩の枠にとらわれない連合体を作り上げていきました。

玄瑞達が活動しているのと同じように水戸藩士らも動いていました。水戸藩士らは、航海遠略策を廃案に追い込むため、推進役の一人であった安藤信正を、坂下門で(坂下門外の変)襲撃し、結果、安藤信正は失脚します。

この状況を見逃さず、玄瑞は藩重役に長井の弾劾書を提出し、藩内でも激しく尊王攘夷運動を展開します。ついには脱藩して上京し、朝廷に長井雅楽弾劾の建白書を提出します。

結局長井は切腹を命じられ、文久3年(1863年)2月6日に自害することとなり、玄瑞らの働きによって藩論は尊王攘夷論に傾向していきます。

王政復古など、藩の攘夷運動を牽引

その後、玄瑞は政策として、廻瀾條議(かいらんじょうぎ)という建白書を藩主に提出します。

内容は、師・吉田松陰の名誉回復と強い攘夷論の展開です。長州藩が主導して、軍事と政治の実権を朝廷に戻すべきという王政復古の考えなどを記しています。これが藩主に受け入れられ藩論となりました。

また、玄瑞は全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書・解腕痴言も書いています。ここから長州藩は先鋭的に攘夷、および倒幕運動を推進することになっていきます。

玄瑞は、藩から謹慎も解かれ、長州・薩摩・土佐の有志の会合に出席します。この会合で攘夷勅使を激励する決議を決め、また、朝廷を警護する3藩連合での近衛兵を創設することも計画しています。

 

朝廷を攘夷派に

朝廷内でも三条実美(さんじょうさねとみ)と手を結び、朝廷を尊王攘夷派で主導する体制を自ら講じて、朝廷内に強く介入していきます。

朝廷に対して破約攘夷を幕府に申し付けるよう強く要請し、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知(あやねこうじきんとも)に同行して幕府に攘夷の実行を迫ります。

 

高杉晋作と攘夷運動

また、上海から帰国した高杉晋作らと血盟同盟を結び御楯組も結成します。

そして、文久2年(1863年)12月12日、品川御殿山に建設中のイギリス公使館に対し焼き討ちを行いました。

 

下関戦争

攘夷決行を決めた玄瑞は各藩の志士とも会合を重ね、文久3年(1863年)5月10日、幕府制定の攘夷期限が過ぎると、攘夷決行の場所を下関海峡と定めて、往来する外国船を砲撃することに決めました。これが下関戦争と呼ばれるものです。

内訳は藩の正規兵六百五十余り、下関細江の光明寺に駐屯していた玄瑞率いる浪士隊が約五十人、長府・清末両藩から三百人が出動し、およそ千人の規模でした。

 

砲撃を記念して光明寺党と名乗る

攘夷第一弾となる攻撃の相手はアメリカの商船ペンブローグ号でした。最初に砲台から放った1発目が光明寺からの砲撃だったので、それを記念して、玄瑞率いる浪士隊は光明寺党と名乗るようになりました。

この外国船砲撃では、ペンブローグ号だけではなく、フランスの通報艦キャンシャン号・オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号も次々と砲撃しました。

 

下関戦争で大敗

玄瑞は藩命により攘夷実行の知らせるためと、協力的ではない小倉藩の処罰要請のため、京都に向かいます。

この後、米仏からの報復に遭い、長州藩は欧米の軍事力を目の当りにすることになり、四国艦隊下関砲撃事件に繋がっていきます。

元治元年(1864年)8月、英・仏・米・蘭の4か国連合艦隊は、下関事件の報復として下関と彦島の砲台を徹底的に砲撃占領しました。列強艦隊の前にして長州藩は壊滅的な敗北を味わいます。

結局、この攘夷第一弾を起こしたのは藩としては単独の長州藩のみで、その孤立ぶりは顕著でありました。

 

八月十八日の政変

長州藩が攘夷実行と孤軍奮闘する中、京都では攘夷推進派であり長州藩の後ろ盾であった姉小路公知が、薩摩藩士田中新兵衛に暗殺されます。

少し前まで薩摩藩士とは協力的に連携していたはずですが、薩摩藩は公武合体を企画する島津久光に実権が替わっていたのです。島津久光は、佐幕派(公武合体・幕府派)であり、反幕府派の長州藩を良くは思わず、朝廷内から排除する考えを持っていました。実際、藩内の攘夷派志士を京都の寺田屋で粛正させ、西郷隆盛も追放しています。

 

長州藩の孤立と追放

こうした流れで京都でも長州藩は孤立していく形になり、朝廷との繋がりが損なわれていくことになります。そしてこの間に、長州藩は米仏からの凄まじい報復にあっていました。

藩の状況打破、幕府の弱体化を早急に進めなくてはいけない玄瑞は、天皇直々の外国勢力や幕府に対する御親征(討伐)を仰ぐという策や、長州藩主導の討幕準備など、攘夷派の公卿達と朝廷内で次々に策を実行していきます。

 

攘夷派・孝明天皇から見放される

しかしこの動きを、孝明天皇は不快に感じていたようで、これを薩摩藩や会津藩が知ることとなります。そして会津藩主・松平容保(かたもり)は長州藩や攘夷派の動きを幕府寄りの皇族に知らせました。

結果、倒幕や御親征を望んでいない孝明天皇は「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」と長州藩を排除する命を出します。

 

八月十八日の政変で四面楚歌

これに従い、1863年8月18日、会津藩・薩摩藩は御所を守衛していた長州藩士を御所から追い出し、八月十八日の政変という長州藩追放のクーデターが完了します。

この動きには鳥取藩、岡山藩、米沢藩なども賛同しており、長州藩は列強からの報復を受けるだけでなく、京都では立場を失い、玄瑞ら長州藩は四面楚歌の状況に追い込まれていくことになります。

 

禁門の変(蛤御門の変)で死去するまで

八月十八日の政変で、朝廷内の攘夷派の公卿達も追放され長州藩へ落ち延びます(七卿落ち)。この結果、宮廷内から攘夷派は一掃され、京都において長州藩は最悪の状態となってしまいます。

状況打開の策を任されることになった玄瑞は、新たに政務座役という藩の要職に就きます。

 

進発論に反対する玄瑞

そのころ、国元の長州藩でも活発に動きがありました。来島又兵衛らによって、孝明天皇の誤解を解くために、藩主自らが率いて挙兵し武力を背景に状況打開を訴えるという進発論が盛り上がっていたのです。

しかしこの進発論は武力を背景にしたものであるため、更なる敵を作り誤解を招く危険がありました。そこで、国元では高杉晋作が来島又兵衛の説得にあたり、京都でも桂小五郎と玄瑞が押しとどめていました。

この来島又兵衛の説得が元で、高杉晋作は脱藩し、一時野山獄へ投獄されてしまいます。

 

公武合体派が離散し、進発論へ舵をとる

新発論を押さえていた玄瑞ですが好機が到来します。公武合体派の諸侯と幕府派遣の役人との関係が円滑にいかず、上洛していた将軍・徳川家茂が江戸に戻ると、公武合体派は解散状態になったのです。

そこで、玄瑞は進発論に舵を切り、国元へ報告します。報告を受けて長州藩の世子・毛利定広が立ち、長州藩兵が進発する準備が進められていきました。

 

池田屋事件で吉田稔麿が死去

その最中に、池田屋事件が発生してしまいます。

これは京都の旅館・池田屋で会合を開いた長州藩や土佐藩の尊王攘夷派の志士たちを、新選組が襲撃した事件です。

この事件で同志の吉田稔麿(としまろ)らが犠牲になり、長州藩士を激昂させました。そして、長州藩士たちは決起し、京都に向かって進軍することになったのです。

 

来島又兵衛の主戦論が承認され、禁門の変が勃発

玄瑞は、長州藩の戦力だけでは状況を打開するのは難しいと考え、朝廷に嘆願書を提出し、寛大な措置を要請します。

しかし、幕府が諸藩に京都への出兵を命じ、精強で知られる薩摩藩士と西郷隆盛が入京すると、孤立無援の状態になります。

京都での情勢を熟知していた玄瑞は、進軍してきた来島又兵衛らと協議を重ね、武力を使う事を押しとどめるように最後まで説得を試みました。

しかし、説得に失敗し、来島又兵衛の主戦論が承認されます。

そして、御所の西辺である京都蛤御門付近で長州藩と会津・桑名藩が衝突し、禁門の変が勃発しました。

 

来島又兵衛が自刃

玄瑞は京都から逃げ出すことなく陣へ戻り、前関白の鷹司輔煕に再度嘆願を行い、朝廷からの許しを得ることに希望を繋げます。

しかし、こうした玄瑞の行動も空しく、御所の門前で薩摩藩と激突した来島又兵衛は、落馬して戦闘困難となり、自刃します。長州藩の主戦力である来島又兵衛の戦死は、長州藩の戦意喪失に直結しました。

玄瑞の元にも来島又兵衛戦死は伝えられますが、隊を撤退させることなく鷹司輔煕の屋敷を目指します。この屋敷は越前藩兵が守備しており、容易に突破することはできません。このため、玄瑞は裏門から邸内に侵入して鷹司輔煕と面会します。

しかし拒絶され、鷹司輔煕は邸内から脱出してしまいました。

 

玄瑞が自刃

万事休す、もはや玄瑞には打つ手はなく、長州男子として自刃することを決めます。

共に自刃しようとする入江九一(いりえくいち)を「どんなことをしてもこの屋敷を出て世子君に上洛しないよう進言して欲しい」と説得し、後を託します。

この願いを受け入江九一は脱出を試みますが、門外附近で襲われ、死亡します。享年29歳。

残った玄瑞は、一緒に自刃すると決めた寺島忠三郎と鷹司邸内で互いに刺し違えて自害しました。

寺島忠三郎、享年22歳。久坂玄瑞、享年25歳。こうして松下村塾の貴重な人材である3名が同時に命を落とす事になったのです。

久坂玄瑞と坂本龍馬の関係

長州藩を窮地から救った切り札ともいう薩長同盟に奔走した坂本龍馬。

海軍総督・高杉晋作から迫り来る幕府艦隊に対抗するための援軍を頼まれて、龍馬は丙寅丸(へいいんまる)とともに自ら乙丑丸(いっちゅうまる・ユニオン号)の指揮をとり、長州軍として出撃をした事実があります。

 

龍馬が玄瑞を訪れた?

坂本龍馬がここまで深く長州と関わるきっかけとなったのは、久坂玄瑞を訪ねたのが始まりです。坂本龍馬は文久2年(1862年)1月、武市半平太(土佐勤王党)から玄瑞に宛てた書簡をもって萩を訪れます。

龍馬は強い意志で玄瑞に会いに来たのではなく、あくまで剣術修業という名目で武市半平太の使いとして訪れてきました。

この時、薩摩藩からも使者がきていたようで、玄瑞の日記「江月斎日乗」にも詳しい感想や人物の記載はなく、土人、薩人来る。のような短いものです。

龍馬は萩に10日ほど滞在して松下村塾の面々と対面しており、その時に玄瑞から手紙を預かり、武市半平太へ詳しい内容を説明されたようです(2010年に土佐山内家宝物資料館(高知市)が80年ぶりの発見で公表しニュースになります)。

手紙の中には何度も「坂本君」という文字があり、詳しく坂本君に説明してあるという内容が書かれていました。

 

龍馬の活動に影響を与えた?

玄瑞は龍馬に対し、尊王攘夷の必要性や、草莽崛起の考えとして藩の枠にこだわらず決起しなくてはいけないという話を伝えたのでしょう。この玄瑞との対面は龍馬の何かしらのスイッチを入れることになりました。

龍馬は萩を訪れた2ヶ月後に脱藩してしまいます。その後活発に活動を始める事になるのですが、玄瑞から何かしらの影響を受けたと考えるのが妥当だと思います。

しかし、残念ながら玄瑞と知り合いの域を超えるには時間が足りなかったのが事実で、玄瑞が禁門の変で死んでいなかったら、高杉晋作と同じように軽く友情が芽生えるくらいの間柄になっていたのではと想像することができます。

 

久坂玄瑞の子孫

久坂玄瑞は身長が高く、色白で男前、美声で詩吟も上手だったそうです。

そんな玄瑞は妻・文との間に子供がいたのでしょうか。玄瑞の子孫について詳しく説明していきます。

 

養子・粂次郎

久坂玄瑞と妻の文は子宝に恵まれず、子供はいませんでした。そのため、姉の寿と、のちの夫となる小田村伊之助の次男である粂次郎(くめじろう)を久坂家の養子としました。

玄瑞の死後は粂次郎が久坂家を正式に継いでいます。しかし、玄瑞の遺児である秀次郎(ひでじろう)が実子と認められ、久坂家を継ぐこととなり、粂次郎は実父である小田村伊之助(楫取素彦)のもとに戻り、楫取道明を名乗って楫取家を継ぎました。

のちに道明は台湾で芝山巌事件(しざんがんじけん)に遭って殺害され、「六氏先生」の一人として祀られています。

 

遺児・秀次郎

秀次郎は玄瑞と愛人である京都島原の芸妓・辰治との間に、禁門の変後、産まれます。明治維新後に玄瑞の息子であるという申し出をしてら認知されました。

就学などの支援は小田村伊之助が行い、のちに官職などではなく民間人として大倉組(大倉財閥)の台湾基隆支社で勤務しました。

 

玄孫・久坂佳照氏

現在の久坂家当主の玄孫に当たる久坂佳照(よしてる)氏は福岡県に在住されています。

死後150年にあたり、大河ドラマの舞台となった山口県で、久坂玄瑞を演じた東出昌大さんも参加した慰霊祭が行われましたが、その慰霊祭に、玄孫の方が参加したのを地元山口新聞が報じています。

 

久坂玄瑞の名言

久坂玄瑞は松陰も認める秀才と言われただけに書物や名言が多く残されています。どのような名言や歌、辞世の句などが残されているのかご紹介します。

 

名言①

胡雲漠漠盡冥朦。天下無人護聖躬。九闕他年遭吉夢。金剛山在野山中。

胡雲 漠漠(こうんばくばく)として  盡(ことごと)く冥朦(めいもう),天下人の 聖躬(せいきゅう)を 護る 無し。九闕(きうけつ) 他年  吉夢に 遭あはば,金剛山は  野山の中に 在り。 

【意味】怪しげな雲のごとく異国がやってきて我が国もおだやかではない。今は天皇を守る事も難しい激動の時代である。もし天皇が吉夢をみるのであれば、かつて後醍醐天皇が金剛山に籠った楠木正成を見つけ出したように、野山獄の松陰先生を見つける夢をみるべきである

 

名言②

皇國威名海外鳴。誰甘烏帽犬羊盟。廟堂願賜尚方劍。直斬將軍答聖明。

皇國(こうこく)の威名(いめい)  海外に鳴り,誰か甘んぜん  烏帽(うぼう) 犬羊の盟(けんようのめい)。廟堂(びょうどう) 願はくは 賜(たま)へ  尚方の劍(しょうほうのけん),直ちに 將軍を斬りて  聖明(せいめい)に答へん。 

【意味】我が国の威名は海外に知れ渡っているほどだ、なのに朝廷に許しなく勝手に条約を結ぶような幕府の輩。黙ってみているわけにはいかない。朝廷よ、どうか悪臣を討つ剣を私に賜りたい。そうすれば、将軍を斬り捨てて天皇のお心にお答えします。

 

名言③

時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起

ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき 

【意味】私の志と、その想いは夜明けに輝く月のほかに知る人はいない

 

これは辞世の句と言われていますが、正確には亡くなるかなり前に読まれた和歌です。

ただ、即今攘夷を心に決め、御楯組を結成したあたりからはいつ死んでもおかしくないと常に思い、自分の事を一人見つめることがあったのだと考えられます。

 

名言④

諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これなき事と、私共同志中、申合せ居り候事に御座候 

【意味】諸藩(大名)も公家も頼りにならない。身分の隔たりなく藩の垣根なく団結して立ち上がる以外に策はない。土佐藩も長州藩も国家の大事なら潰れて致し方ない。今こそお互いに立ち上がろう

 

土佐藩士武市半平太(たけちはんぺいた)に宛て、坂本龍馬に託した手紙の一部です。

 

名言⑤

世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい 

【意味】世の中がどうなろうと自分が信じた道をひたすらに踏みしめて進むのが良し。