村田新八とは?子孫や西郷隆盛との関係、アコーディオンについて解説!

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年少期に西郷隆盛に心酔し、兄のように慕った村田新八は生涯迷うことなく西郷隆盛の歩む道をあとから追いかけていきました。

西郷あるところに村田あり、西郷が奄美に流されたときは喜界島に、征韓論に敗れた西郷が下野すると村田も職を辞して薩摩へ戻り、当然西南戦争にも従軍して愛する息子を失いながらも戦い続け、西郷が自決するとそれを見届けたのちに残兵を率いて進軍、最後に一戦してから自決しました。

平素は芸術と音楽を愛し、岩倉使節団でヨーロッパに渡ったときにパリでみたオペラに使われるアコーディオンを気に入り、それを日本に持ち帰って西南戦争の最中でもそのアコーディオンを手離さず、シルクハットとフロックコートを着て戦場に立ち続けた風変わりな男・村田新八の生きざまとはどんなものだったのでしょうか?子孫も含めて解説していきます。

村田新八、誕生から寺田屋事件

天保7年11月3日(1836年12月10日)薩摩国鹿児島城下加治屋町の高橋八郎の三男として誕生しますが、すぐに村田十蔵の養子となります。

西郷隆盛を兄と慕うほどですから大山巌、西郷従道らと共に精忠組に当然のごとく参加し、尊皇攘夷活動を始めます。

1862年、精忠組が深く関わることになった寺田屋事件では、上洛する島津久光の先発隊として下関に滞在中、薩摩藩過激尊皇派の有馬新七や久留米藩士・真木和泉らの京都挙兵、京都所司代や関白の襲撃計画を聞きつけ、島津久光の命令を無視して西郷と共に京都へ駆けつけて説得を試みますが、あとから上洛してきた島津久光の怒りをかって捕縛され薩摩へ強制帰藩させられます。

その後、寺田屋事件に関わって処分された者の多くが精忠組だったため、西郷隆盛がこれを主謀、煽動したとして奄美大島に流され、村田新八も喜界島に流されました。

 

赦免後、薩摩藩の外交官として活躍

喜界島に流されて2年後赦免となり西郷と共に薩摩へ戻った村田新八は、すぐに西郷隆盛の側近として薩摩藩外交の最前線に立つこととなります。

 

薩長同盟

1866年の薩長同盟での長州藩代表の木戸孝允、品川弥二郎らの接待、同盟締結後は長州へ赴き藩主・毛利敬親に拝謁、ここで伊藤博文と合流して長崎へ行き上海へ渡海、帰藩後は薩土同盟の書簡を持って再び山口へ行き品川弥二郎、世羅修蔵らと上京しました。

 

王政復古の大号令

王政復古による政変への流れが定まると中岡慎太郎と共に九州諸藩を遊説、下関で坂本龍馬とも会談し、長州、土佐の実力派志士とも数多く行動をともにし、薩摩藩の外交官として表舞台で活躍しました。

 

戊辰戦争

戊辰戦争が始まると薩摩藩遊撃二番小隊の監軍(軍隊を管理する役職・戦目付)となり御台所御門の警備、淀の戦い、八幡の戦いに出陣、西郷隆盛が東征大総督府の下参謀になると村田新八は先鋒隊二番小隊長になり駿府、箱根を占領、江戸開城交渉の護衛、上野戦争から白河口の戦い、二本松の戦い、会津若松城攻城戦にも参加しました。

明治新政府で役職を辞任

明治2年に鹿児島常備隊砲兵隊長となり、その後はしばらく薩摩藩の公務に就いていましたが、西郷隆盛の推薦で宮内大丞(宮内省の役人)に任命され、1871年岩倉具視の使節団にも随行し欧米を視察後の1874年帰国、西郷が征韓論に敗れて下野したことを知るとすぐに辞表を提出して鹿児島へ帰郷しました。

村田新八の能力を高く評価していた当時の内務卿・大久保利通はその辞職を聞くと非常に落胆したと伝えられています。

 

西南戦争での村田新八

鹿児島に戻った村田新八は桐野利秋(きりのとしあき)や篠原国幹(しのはらくにもと)とともに私学校を設立、砲隊学校及び章典学校の監督となりました。

明治10年2月4日、私学校での大評議によって上京出兵が議決されましたが、村田新八は発言することなく、薩摩軍の大隊編成により二番大隊指揮長になります。

薩摩軍先発隊と熊本鎮台偵察隊との間で西南戦争の火蓋が切って落とされると、熊本鎮台包囲戦では背面軍の指揮を任された村田新八でしたが、鎮台軍の籠る熊本城は堅城で攻略が長引きました。

戦況が膠着している間に政府軍の各旅団が南下を始め薩摩軍はこれらの対応に追われることになります。

 

熊本城、田原坂で敗走

熊本城は落ちず、徐々に政府軍に押され始めた薩摩軍は西南戦争最大の激戦地となった田原坂の戦いで大敗すると安政橋口の戦いにも敗れて、政府南下軍と熊本鎮台軍に挟まれることとなり、薩摩軍の劣勢が明らかとなりました。

木山、矢部浜町、人吉へと退却を重ね、人吉本営が攻撃されると村田新八は自らが部隊を指揮して戦いますが力及ばず敗退します。

本隊は小林、高原麓、野尻と次々に退却を繰り返し、それらの奪還作戦も失敗、庄内、谷頭へと退きます。

村田新八の守る都城も陥落し、続いて宮崎、富高新町も落とされ、美々津の戦いに敗れ、もはや政府軍の進撃を食い止めることもできずにずるずると薩摩軍は後退を続け、政府軍の包囲をなんとか突破して鹿児島に帰還、城山を占拠しますがすぐに政府軍に包囲されます。

 

村田新八、自決

9月24日、政府軍が城山に総攻撃を仕掛けると西郷隆盛以下40名は岩崎口へ進撃するも西郷が被弾し、別府晋介(べっぷしんすけ)の介錯によって自決、村田新八はこれを見届けると薩摩軍の生き残りとともに進軍、岩崎口で一戦して、ついにこの地で自決。

享年42歳、西郷隆盛とともに走り続けた人生に幕をおろしました。

村田新八とアコーディオン

岩倉使節団でヨーロッパへ視察に訪れた村田新八はいたくオペラを気に入り、そこで演奏されるアコーディオンの音色の虜となり、アメリカでアコーディオンを購入後、練習を欠かさず多くの曲を引けるようになったそうです。

戦闘中はシルクハットにフロックコートを羽織り、日本刀を振りかざして戦い、戦闘が終わると日本刀をアコーディオンに持ち替えてフランス革命の曲でフランス国歌である「ラ・マルセイエーズ」などを弾いたそうです。

村田新八は城山での最後の夜にアコーディオンを弾き、皆に聴かせてその後このアコーディオンを火の中にくべて焼いたそうです。

死に行く運命を悟った覚悟を示す行動だったのかも知れません。

 

村田新八と西郷隆盛との関係

幼少の頃から西郷隆盛に心酔した村田新八は西郷隆盛と行動を共にすることこそが自分の役割と決めたような生き方をしていきます。

島津久光の命令よりも西郷隆盛の命令を優先し、戊辰戦争で東海道軍の東上前の編成替えで薩摩軍城下二番小隊の隊長になったときも、西郷の幕下にいるために小隊の指揮を二番小隊の監軍であった辺見十郎太(へんみじゅうろうた)に任せていたと言われています。

西郷隆盛のそばで西郷の役に立つことを最優先し、西郷が自決したのちのわずか数時間だけが村田新八が自由に生きた時間で、あとは西郷隆盛の人生に自分の人生を埋め合わせた人物でした。

 

村田新八の子孫

村田新八には三男一女がいたと言われていますが、長男・岩熊と次男・二蔵は西南戦争に従軍、二蔵は負傷し一命はとりとめ生還しますが、岩熊は最大の激戦地となった田原坂の戦いで銃弾を浴びて戦死しました。

民謡・田原坂の最初の歌詞である「雨は降る降る陣羽は濡れる、越すに越されぬ田原坂。右手に血刀左手に手綱、馬上ゆたかな美少年。」と謡われた美少年は村田岩熊がモデルではないかと言われています。

 

村田新八を演じる俳優は誰?

2018年大河ドラマ「西郷どん」で村田新八を演じるのは俳優の堀井 新太(ほりいあらた)さんです。

大河ドラマは2015年の「花燃ゆ」の 中原復亮 役以来2度目の出演となります。

若手俳優さんですが、背が高く高校時代、軟式野球で鍛えた運動神経で行動力のある村田新八を演じてくれそうです。

 

さいごに

西郷隆盛に出会ってからそのそばを片時も離れたくないような人生を送り、実際に西郷が関わった事象のほとんどの場面で村田新八は登場します。

いつ、どんなときも西郷隆盛のためになることだけを考え、西郷の成すことに異を唱えることなく、西郷の影となって支え続けました。

西南戦争で出兵が決まったとき村田新八は無言を貫いたと言われていますが、これはこの出兵には反対であったが、西郷隆盛がそう決断したのであれば、その決断に従うと言う彼の無言の同意だったのかもしれません。

西郷隆盛の自決を確認したとき、彼に残された道は最後まで戦っての死、それ以外に選択の余地はなかったと思われます。

自分の心酔した人物に捧げた人生を全うしたのであれば村田新八にとっては満足の行く人生だったのではないでしょうか。