足利尊氏(あしかがたかうじ)が1338年に初代征夷大将軍に任じられてから15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が1573年に織田信長(おだのぶなが)によって京都から追放されるまでの約150年間を一般的には室町時代と言います。
ただ、1333年の建武の新政からの60年間は南北朝時代、1467年にはじまった応仁の乱以降は戦国時代に分類されることもあり、狭い意味では75年間程しかなかったことになります。
京都北小路室町に花の御所を3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が造営し、ここに歴代将軍が居住したことから室町時代と呼ばれるようになったため、応仁の乱で京都が焼け野原になるまでは絢爛豪華な文化が京都に花咲くことになりました。
今回は室町時代の食事や服装からみる文化や歴代将軍の略歴、出来事をまとめた年表を追いかけながら室町時代を探索したいと思います。
室町時代の成立の背景
鎌倉時代末期、元寇における恩賞の少なさ、元の侵攻に備えた軍役の増加、北条宗家(得宗家)のみが栄えるのを目にした多くの関東武士、御家人が幕府に対して反旗を翻します。
近畿では悪党(非御家人の武装集団)楠木正成(くすのきまさしげ)や播磨守護・赤松氏が鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇に加担、これを討伐に出向いた足利尊氏は幕府を裏切って六波羅探題を攻略、また上野国の御家人・新田義貞(にったよしさだ)が率いる反鎌倉幕府の関東武士団が鎌倉に突入し、執権・北条高時(ほうじょうたかとき)らは自害、鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が開始されると、足利尊氏は武蔵、上総の守護に任じられて厚遇されますが、皇族や公家のみが優遇される親政に武士の不満が溜まり、その支持を集めた足利尊氏は政権から離脱します。
尊氏は新田義貞、楠木正成らの軍を破り、後醍醐天皇が京都を脱出し大和国吉野に逃亡したため、足利尊氏は1338年、征夷大将軍に任ぜられて室町幕府が誕生しました。
京都を首都とした地方分権国家だった室町時代
室町幕府歴代将軍は京都北小路室町に造営した花の御所に住み、3代義満の時代には政治的にも安定しましたが、足利幕府の経済的軍事的基盤は弱く、守護による地方統治能力を補完してもらうことで全国を治めるに至りました。
京都を中心にした政治体制が確立すると室町期には京都の寺社の改修や建立が相次いで行われ、建築や造形において大きな文化が花開きます。
地方を治める守護の力が強かったため、領土の拠点は城下町として大きな発展を遂げることとなり、そこに繋がる街道が整備されて宿泊施設の整った宿場町が各地に誕生しました。
これにともない交通網が整備され、陸上は馬借(ばしゃく)、海上は廻船を用いて商品流通が盛んとなり、輸送や委託販売、貸倉庫を兼ねる問丸が登場しました。
また貨幣経済が発達し、永楽通宝と輸入銭である明銭や宋銭が併用して使用され、経済が発達していた西日本だけではなく東日本にも浸透していきました。
これにともない度々貨幣不足を引き起こすことがあり、これを補うために鐚銭(びたせん)と言われる粗悪な私鋳銭が流通して市場が混乱、幕府は撰銭令(鐚銭の受取拒否の禁令)を出して貨幣の流通を促進しました。
室町時代の産業
農業は鎌倉時代よりも飛躍的に生産性がアップし、二毛作が関東地方にも普及、胡麻や桑、木綿など加工用の作物の栽培が開始されます。
また、この頃から柿、瓜、梨などの果実も流通するようになりました。
商業では交通の要衝と言われた場所に定期市が開かれるようになり、城下町では常設の店舗もでき、卸売りを行う問屋が誕生しました。
室町時代には織物や製紙といった産業が発展し、京都の西陣織に代表される高級織物は堺や博多などの都市でも生産され始めます。
美濃国で盛んとなった製紙業は美濃和紙を生み出し、5000戸を越える製造家が存在し和紙を求めて全国から人が集まるようになりました。
室町時代の年号は複雑怪奇
室町時代の初期は南北朝時代と呼ばれ、天皇が二人存在する時代がありました。
このため、年号も二つ存在することになってしまいました。
鎌倉幕府が滅亡した1333年、南朝(大覚寺統)は元弘、北朝(持明院統)は正慶。
これは後醍醐天皇が倒幕計画が発覚した後に元弘に改元したのを鎌倉幕府が認めなかったため、この時点で年号が元弘と元徳(後に正慶)の二つ存在しました。
後醍醐天皇が京都に戻り、親政を開始して年号は建武に統一されますが、室町幕府が成立し後醍醐天皇が吉野へ逃亡したため幕府は新天皇を立てることになり、二つの朝廷が存在する南北朝時代が到来します。
南朝の年号は延元、興国、正平、建徳、文中、天授、弘和、元中と続き、北朝の年号は暦応、康永、貞和、観応、文和、延文、康安、貞治、応安、永和、康暦、永徳、至徳、嘉慶、康応と続きます。
この後、南北朝が統一され、応永、正長、永享、嘉吉、文安、宝徳、享徳、康正、長禄、寛正、文正そして応仁を迎えます。
応仁以降の文明、長享、延徳、明応、文亀、永正、大永、享禄、天文、弘治、永禄、元亀は戦国時代に分類されることもあります。
北山文化は室町前期の代表的な文化
政治的に武士が公卿を圧倒し、武家の文化と公家の文化が融合、海外との貿易によって禅宗をはじめとする大陸文化が上陸し、これらの影響も受けて全く新しい武家文化が開花します。
その象徴の一つが3代義満の時代の北山文化です。
京都市北区の北山に山荘を造営、3層の楼閣建築の舎利殿は建物の内外を金箔で貼りつめたため金閣と呼ばれ、一層が寝殿造の阿弥陀堂、二層が武家造の住宅、三層が禅宗仕様の仏舎利という公家風と武家風、禅宗風を融合した造りとなっています。
絵画では明兆(みんちょう)、如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)によって水墨画が全盛期を迎え、田楽や猿楽といわれた芸能は観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)親子によって能として大成されます。
室町時代後期は東山文化
応仁の乱終結後の1482年から8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)によって京都市左京区の東山に金閣寺を模した楼閣建築である慈照寺(じしょうじ)銀閣が造営されました。
ちなみに金閣寺とは違い、銀閣寺には銀箔を貼られたことは一度もなく、銀閣の名称も江戸時代以降につけられたものです。
日本庭園の様式である枯山水が多く用いられるようになり、大徳寺大仙院庭園、竜安寺方丈庭園などの代表的な日本庭園が作られたのもこの時期でした。
絵画・狩野派の祖である狩野正信(かのうまさのぶ)が幕府御用絵師となり、水墨画と大和絵を融合させた土佐光信(とさみつのぶ)によって土佐派が全盛を迎え、水墨画は雪舟(せっしゅう)の登場によって完成されました。
侘び茶の創始者・村田珠光(むらたじゅこう)によって茶道が誕生、池坊専慶(いけのぼうせんけい)によって華道が始まったのもこの時期とされています。
室町時代前期の北山文化と後期の東山文化を総称して室町文化と呼んでいます。
室町時代の生活、服装や食事はどうだった?
室町時代の生活は鎌倉時代から大きな変化はなく、武士は平時は直垂(ひたたれ)という衣装で上衣は胸辺りできっちりと結び、袴も足首でしっかりと結び、頭には折烏帽子(おりえぼし)をかぶり、非常に動きやすい格好をしていました。
戦時は、直垂よりも小さい鎧直垂を着てその上に鎧をつけ、頭には兜を被りましたが、鎧も兜も相当な重量があり、馬上以外では役に立たず、これを着て走ったりするのは不可能でした。
女性は小袖(鎌倉時代は下着)を室町時代に発達した染色技術で染めて上衣として着用し、柄物の染色も可能になっていたため、彩り豊かな着物が普及していきました。
食事は鎌倉時代の2回から朝、昼、晩の3回へと増え、主食は玄米粥が主流、おかずは鯵などの焼き魚、茄子や大根の煮物、これに漬け物や梅干し、しじみやあさりの汁物がついていました。
室町時代頃から祝いの膳に鯛のお頭付きが登場し、蛸のなますや蛤なども食されるようになります。
武士の階級では専門の料理人が調理するようになり、職業として料理人が誕生しました。
商業の発展とともに城下町では焼き物を売る店も誕生し、都市部の生活が大きく変化していきます。
室町幕府・歴代将軍
初代・足利尊氏(あしかがたかうじ)
1305年8月18日生まれ、1358年6月7日没、享年54歳
鎌倉幕府では相当優遇される立場でしたが、後醍醐天皇討伐の最中に寝返って六波羅探題を攻略し鎌倉幕府を滅亡に導き、建武の新政では後醍醐天皇を裏切って新田義貞、楠木正成らを討ち取って室町幕府を樹立しました。
2代・足利義詮(あしかがよしあきら)
1330年7月4日生まれ、1367年12月28日没、享年38歳
尊氏存命中に幕府の政務を任され、叔父の足利直義(あしかがただよし)との政争を制し、大内氏、山名氏を幕府に帰参させ、室町幕府の基盤安定化に尽力しました。
3代・足利義満(あしかがよしみつ)
1358年9月25日生まれ、1408年5月31日没、享年51歳
1392年南北朝の統一を為し遂げ、金閣寺を造営し北山文化を開花させるなど、政治面、文化面で室町幕府の繁栄に寄与し、平清盛(たいらのきよもり)以来武家としては二人目の太政大臣に任ぜられました。
4代・足利義持(あしかがよしもち)
1386年3月12日生まれ、1428年2月3日没、享年43歳
9歳で将軍職を父・義満より譲られその後28年間その座に止まり、年々巨大化する守護職の力をうまく利用し、交わしながら政権を運営、38歳で嫡男・義量(よしかず)に将軍の座を譲りますが義量が義持よりも早世してしまい、結局は将軍代行として復帰することになりました。
5代・足利義量(あしかがよしかず)
1407年8月27日生まれ、1425年3月17日没、享年19歳
17歳で父・義持より将軍職を譲られますが、生来病弱の上に大酒飲みで体調に不安があり、在位わずかに2年で急死してしまいます。
6代・足利義教(あしかがよしのり)
1394年7月11日生まれ、1441年7月12日没、享年48歳
4代・義持の同母弟、義持死後にくじ引きで将軍職を継いだため、くじ引き将軍の異名もあります。
弱体化し始めていた幕府の権威を復活させるため、皇位継承に介入したり、延暦寺をはじめとする寺社勢力を強権で抑え込み、対立いていた鎌倉公方を屈服させ、有力守護も奉公衆(将軍直属の軍隊)の力を背景にして帰順させます。
しかし、播磨守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されてしまいました(嘉吉の乱)。
7代・足利義勝(あしかがよしかつ)
1434年3月19日生まれ、1443年8月16日没、享年10歳
6代・義教の嫡男で義教暗殺後、管領・細川持之(ほそかわもちゆき)らに擁され、9歳で将軍職を継ぎました。
しかし、わずか8ヶ月後に死去。
事故死や暗殺説なども存在しますが、病死(赤痢)が有力とされています。
8代・足利義政(あしかがよしまさ)
1436年1月20年生まれ、1490年1月27日没、享年55歳
7代・義勝の同母弟、管領・畠山持国(はたけやまもちくに)の後見で8歳で将軍職を継ぎました。
畠山、織田、富樫など各地の守護家で後継をめぐる御家騒動が頻発し、その上に自身の将軍継嗣問題が重なり、応仁の乱が勃発しましたが義政は政治に関与せず、銀閣寺を造営するなど東山文化を築き、文化人としての側面が強い将軍でした。
9代・足利義尚(あしかがよしひさ)
1465年12月11日生まれ、1489年4月26日没、享年25歳
8代・義政の次男として生まれ、義政の弟・義視(よしみ)との継嗣争いの後に9歳で将軍となりました。
元服後は幕府の実権を握る父・義政と対立、幕府の権威回復のため近江の六角氏討伐に奮戦、一時的には権威の回復に後見しましたが、その後は酒色に溺れ脳溢血でこの世を去りました。
10代・足利義材(あしかがよしき)将軍復帰後・義稙(よしたね)
1466年9月9日生まれ、1523年5月23日没、享年58歳
8代・義政の弟・義視の子で美濃国に逃亡中に9代・義尚が死去、京都へ戻って将軍となります。
しかし管領・細川政元(ほそかわまさもと)と対立、将軍職を追われ約13年に及ぶ逃亡生活の果て、大内氏の後ろ楯を受けて将軍職に復帰しますが、管領・細川高国(ほそかわたかくに、政元の養子)と対立、京都から逃げ出して阿波国で死去しました。
11代・足利義澄(あしかがよしずみ)
1481年1月15日生まれ、1511年9月6日没、享年32歳
8代・義政の兄・足利政知(あしかがまさとも)の子で10代将軍・義材が京都から逃亡後に細川政元に擁立されて将軍の座に就きましたが、義材が大内軍とともに上洛してくると近江国へ逃亡、そのまま京都に戻ることなく病死しました(暗殺説もあります)。
12代・足利義晴(あしかがよしる)
1511年4月2日生まれ、1550年5月20日没、享年40歳
11代・義澄の長男で10代・義材が復帰後細川高国と対立して京都から逃亡すると、高国らに擁立されて将軍職を継ぎました。
この頃の将軍は管領や守護大名の動向にその座が脅かされるようになっており、義晴も例外なく、京を追われ近江に避難したり再び京に戻ったりを繰り返しました。
1545年、将軍職を嫡男・義輝に譲り、近江から京都を奪還する途上で病死しました。
13代・足利義輝(あしかがよしてる)
1536年3月31日生まれ、1565年6月17日没、享年30歳
12代・義晴の嫡男、11歳で将軍になるものの、三好長慶(みよしながよし)、松永久秀(まつながひさひで)に頭を抑えられて、名ばかりの将軍でした。
長慶と戦端を開くも敗戦し、近江へ逃れた5年後長慶と和解、長慶の死後は天皇親政を企てますが、11代・義澄の次男・義維(よしつな)の子である義栄(よしひで)を擁した松永久秀らに攻められて戦死(自害説もあります)しました。
14代・足利義栄(あしかがよしひで)
1538年又1540年生まれ、1568年没、享年29又は31歳
生まれた月日及び死亡月日ともに複数の説があり、確定していません。
13代・義輝死後、松永久秀や三好三人衆に擁立されて将軍の座に就きましたが、松永久秀と三好三人衆が主導権争いを始めたため京都に入ることが出来ず、その後織田信長が足利義昭を奉じて上洛、義栄は阿波国に逃亡しますが、背中に出来た腫瘍が悪化し、死去しました。
15代・足利義昭(あしかがよしあき)
1537年12月15日生まれ、1597年10月9日没、享年61歳
1568年、織田信長の支援を受けて上洛し15代将軍となりますが、信長と対立後は上杉、武田、本願寺、毛利などに打倒織田信長を打診、信長と敵対関係となり、自らも挙兵しますが信長に攻められ、降伏後に京都を追放され、実質的に室町幕府はここで滅亡することになります。
室町時代の出来事
1334年・建武の新政開始
1335年・中先代の乱
北条時行による鎌倉幕府再興の反乱、20日間で鎮静化
1335年・延元の乱
足利尊氏が後醍醐天皇に対して挙兵、約一年に及ぶ内戦
1336年・湊川の戦い
足利尊氏率いる足利軍と新田義貞・楠木正成率いる朝廷軍の戦い、足利尊氏の勝利
1336年・建武式目制定
1336年・後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南北朝時代始まる
1338年・足利尊氏が征夷大将軍に任じられる
1349年・鎌倉府設置
1350年・観応の擾乱(かんのうのじょうらん)始まる、約2年間の足利幕府の内乱
1358年・足利尊氏死去
1359年・足利義詮、2代将軍就任
1368年・足利義満、3代将軍就任
1378年・花の御所完成
1392年・明徳の和約(南北朝統一)
1394年・足利義満、太政大臣就任
1397年・金閣寺建立
1401年・明との国交樹立
1404年・勘合貿易開始
1428年・正長の土一揆(農民による初の一揆)
1429年・尚巴志(しょうはし)が琉球王国建国
くじ引きで足利義教、6代将軍就任
1441年・嘉吉の乱(かきつのらん)赤松満祐による足利義教を暗殺
1443年・足利義政、8代将軍就任
1467年・応仁の乱始まる
1485年・山城国一揆
1488年・加賀一向一揆
1489年・銀閣寺建立
1493年・明応の政変、足利義澄11代将軍就任
1521年・足利義晴、12代将軍就任
1536年・法華一揆(ほっけいっき)
1542年・斎藤道三(さいとうどうさん)、美濃国統一
1543年・ポルトガル人により種子島へ鉄砲が伝わる
1546年・足利義輝、13代将軍就任
1549年・フランシスコ・ザビエルによりキリスト教伝来
1553年・第一回川中島の戦い(上杉謙信VS武田信玄、全5回)
1555年・厳島の戦い(毛利元就による中国地方統一)
1559年・織田信長が尾張国統一
1560年・桶狭間の戦い(織田信長VS今川義元)
1565年・永禄の変(三好三人衆・松永久秀による足利義輝殺害)
1567年・織田信長、美濃攻略
1568年・三好三人衆が足利義栄を14代将軍に擁立
1568年・足利義昭の上洛、15代将軍就任
1569年・織田信長がルイス・フロイスへキリスト教布教を許可
1570年・姉川の戦い(織田・徳川VS朝倉・浅井、織田・徳川連合の勝利)
1570年・長島一向一揆が始まり、10年に及ぶ石山合戦へと拡大
1571年・織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ち
1573年・足利義昭が京都から追放、室町幕府滅亡
室町時代まとめ
鎌倉幕府が滅亡した時には倒幕の功労者の一人でしかなかった足利尊氏は、その後の新政権が失政を犯す中で不満分子の支持を一身に集めて反体制の旗頭として、一躍歴史の表舞台の主役となります。
何度も挫折を余儀なくされますが、その度に体制を立て直して雪辱を果たし、ついには天下をその手中に納めます。
しかし、室町幕府という政権は当初から足利一族の内紛や地方を治める守護同士や中央の実力者たる管領との争いが絶えず、徐々に統治能力を失っていきます。
挙げ句の果てには将軍継嗣問題が日本を二分する大乱へと発展し、この時点で将軍の権威は失われ、全ての者に天下を取るチャンスが与えられる下克上の世がやって来ます。
足利将軍家が統治した室町時代は、巨大な軍事力を持つ中央集権国家誕生への序章となった時代だったのです。