岩倉具視(いわくらともみ)と言えば1994年に支払停止になった500円札の肖像画で多くの人に顔が認知されていると思いますが、歴史にどのような事で名前を残したのでしょうか?
外務卿、全権大使として岩倉使節団を編成して欧米各国を視察したり、王政復古の大号令の断行など幕末から維新にかけて政治の分野で多くの功績を残しており、それだけでなく、暗殺されそうになったり政争に破れて辞職や蟄居処分、出家までさせられたり、また天皇を暗殺したと囁かれるなど、波瀾万丈の人生を歩んでいます。
岩倉具視とはどんな人物で何をした人か紐解いていきたいと思います。
岩倉具視の生い立ち
公卿・堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として1825年10月26日(文政8年9月15日)に生まれ、13歳で岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となります。
岩倉家はさほど格式の高い家柄でもなく裕福でもなかったため、いわゆる下流公家の身分であったと言われています。
28歳の時に関白・鷹司政通へ歌道入門するのですが、これが岩倉具視の運命を変えていきます。
鷹司政通に面識を得た岩倉具視は、実力主義による人材の登用、京都御所にあった学習院での人材育成を説いた朝廷改革の意見書を提出してします。
また、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京し、関白・九条尚忠がそれを許可しようとしたのを、仲間の公家達と阻止したり(八十八卿列参事件)と、徐々に朝廷内で頭角を表します。
桜田門外の変による失脚
大老・井伊直弼による安政の大獄が起こり、状況は一変します。井伊直弼に反対する有力大名や攘夷派の人物がことごとく弾圧されてしまったのです。この時に岩倉具視は朝廷と幕府の関係が悪化するのを恐れ、幕府寄りの姿勢を取って朝幕関係の修復をはかりました。
ところが桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると公武合体派が息を吹き返し、攘夷指向の強い孝明天皇によって安政の大獄で処分された攘夷派の復帰が後押しされたため、幕府に肩入れした形になっていた岩倉具視は尊王攘夷派から敵視されてしまいました。
その結果、近習職の辞職に追い込まれただけでなく、蟄居処分、さらに出家するまで追い詰められてしまいます。その後も尊王攘夷強硬派の執拗な追求で洛中に住めなくなり、洛北の岩倉村に約5年間隠忍自重の生活を余儀なくされます。
そして、禁門の変、第二次長州征伐などが起こり尊王攘夷強硬派は京都から一掃されますが、岩倉具視が赦免されることはありませんでした。
しかし、朝廷内や雄藩での岩倉具視の評価は意外に高く、特に薩摩藩などはその実力を利用しようと考えていました。
岩倉具視がしたこと
第14代徳川家茂の死去、長州征伐の敗戦など幕府に向かい風が吹く中で、日本でもっとも攘夷論者であったと言われる孝明天皇が崩御し、岩倉具視に復活のチャンスが訪れます。
あまりにもタイミングよく孝明天皇が亡くなったため、岩倉具視には孝明天皇毒殺の疑いが掛けられたりしましたが、真偽のほどはいまだに闇の中です。
王政復古の大号令により幕府の権力を奪う
大政奉還が行われ、朝廷に政権が戻ったところで、ついに岩倉具視は赦免されます。
赦免後の岩倉具視は完全に武力倒幕派となっており、幕府からすべての権限を奪う王政復古の大号令を断行し、朝廷に全ての権限を移行しようと画策しました。
戊辰戦争で錦旗を作成し、勝利に導く
その間に長州と薩摩に討幕の密勅を渡し(岩倉具視が私的に作成したとも言われている)秘密裏に徳川慶喜包囲網を完成させ、岩倉村の屋敷では密かに錦旗(きんき・官軍である証の旗)を作成し、有事に備えていました。
薩摩の挑発に乗った幕府軍は岩倉の作った錦旗に戦意を喪失し、鳥羽伏見から上野,会津,函館と敗戦を続け、戊辰戦争は官軍の勝利に終わります。
廃藩置県などの重要な施策を実行
戦争後、新政府の高官として辣腕を振るった岩倉は版籍奉還、廃藩置県、御親兵制度などの難問を解決していき、近代国家としての日本をスタートさせました。
岩倉使節団で特命全権大使を務める
外務卿に就任した岩倉は不平等条約の改正を次の課題とし、その是正を目的とした岩倉使節団の特命全権大使を務め、欧米へ視察に行きました。
使節団を率いて訪れた欧米各国の近代化は岩倉の想像を遥かに越えており、結果的に条約改正よりも視察に重きをおいた欧米訪問となりました。
征韓論に反対し、西郷隆盛と決裂
帰国後、岩倉を待っていたのは留守政府との征韓論をめぐる対立でした。
不平士族の扱いに困った留守政府は朝鮮半島への出兵を計画しましたが、岩倉は国内の充実が優先と考え激しく対立、留守政府の首班格である西郷隆盛らは下野し、江藤新平が佐賀の乱、西郷隆盛が西南戦争を起こして内乱となります。
この不平士族の反乱を押さえ込んだ新政府は磐石な政治体制を確立しますが、明治11年に紀尾井坂の変で薩摩出身の大久保利通が暗殺され、維新の功労者と言われる人物が次々とこの世を去ります。
岩倉具視も1883年(明治16年)に末期の食道癌と診断され、この年悲願とした憲法の制定を見ずにこの世を去っています。
岩倉具視の肖像が印刷された500円札
1951年(昭和26年)4月2日に発行が開始された500札B号券、1969年11月1日から発行が開始された500円札C号券はともに岩倉具視の肖像画が印刷されています。
現在は両方とも発券が停止されていて500円硬貨に取って代わられています。
岩倉具視による孝明天皇暗殺説について
岩倉具視が暗殺に関わったとされた孝明天皇暗殺説。
孝明天皇は天然痘の悪化によって35歳の若さで崩御されたとなっていますが、明治天皇即位以降、暗殺説や毒殺説が流れます。
これはイギリス外交官として活躍したアーネスト・サトウの著書「一外交官の見た明治維新」の中に孝明天皇の死因に関する記述があり、そこで毒殺されたとの証言があることを記述しています。
孝明天皇が極端な攘夷派で、この天皇あるかぎり陽の目をみることがないと思われた謹慎中の岩倉具視が、これを暗殺するように指示した黒幕であると言う謀略説です。
手助けしたのが薩摩の大久保利通、実行犯は宮中の岩倉具視の息かかったものとも言われています。
伝聞証拠だけで状況証拠すら存在しませんが、時代背景やそのときの岩倉具視の立場などから、まことしやかに噂が流布したようですが、今ではどの説も推測の域を出ません。
岩倉具視自身も暗殺の危機に
また岩倉具視は明治7年(1874年)公務を終えて自宅に帰宅中、赤坂喰違坂(あかさかくいちがいざか)で暴漢に襲撃され、数ヵ所に切り傷を負いながらも逃亡に成功、一ヶ月後公務に復帰しています。
犯人は武市熊吉以外旧土佐藩士族9名で、西郷隆盛や江藤新平らと共に下野した連中で、逮捕後斬首されています。
岩倉具視の子孫
岩倉具視の子孫は現代でも続いており、様々な分野で活躍しています。
有名な人物としては芸能人の加山雄三さんなどが挙げられます。
さいごに
下級公家の身分から天皇の側近まで上り詰め、失脚後不遇の時代を過ごしますが、復帰後は新政府樹立と政府が抱える諸問題をその卓越した政治力で解決、新政府の基礎を確立しました。
暗殺の黒幕や事を成就するのに手段を選ばないやり方に多くの批判もありますが、岩倉具視の決断力が幕府を倒し明治政府を樹立した原動力であったのは間違いありません。
食道がんで亡くなったのち、彼の葬儀が日本の歴史上初めての国葬であったことを見れば、生前どれだけの権勢を振るっていたかがわかります。
それだけに500円と言う少額紙幣に肖像画が使われたことは、岩倉具視自身がもっとも嘆いているのかも知れません。