松平容保(まつだいらかたもり)は徳川御三家である水戸藩初代・頼房の子孫であるため、徳川家康の血を引く人物です。
まさにエリート出身の容保ですが、京都守護職を受けて尊王攘夷派を取り締まったことで恨みを買い、戊辰戦争では白虎隊などで有名な会津の悲劇を引き起こしてしまいます。
そんな容保の生涯全般について、子孫や家系図、またイケメン説や新撰組との関係について詳細に解説していきます。
松平容保の生い立ち
松平容保は江戸の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれました。
10歳のときに会津藩主・容敬の養子となり、16歳のときに家督を継いでいる容保ですが、会津若松に住んでいたわけではなかったため、生粋の江戸っ子だったようです。
容保が24歳のときに桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼の暗殺に関係している水戸藩が取り潰される危機に陥ります。容保は水戸藩の血を引いているためか、その取り潰しに反対し、幕府と水戸藩の調停に動いています。
若い時から、幕末の混乱期に遭遇していた容保でした。
京都守護職を引き受け、攘夷派の恨みを買う
松平容保は京都守護職の任を受け、江戸の治安を守る役目を負います。
京都守護職とは、各地から集まる尊王攘夷派の暴動を防ぎ、京都の治安維持に務めることを目的とした、薩摩藩の島津久光が提唱した役職です。
この京都守護職の任を受けたことが原因となり、会津の悲劇に繋がっていくのです。
当初は頑なに固辞していた
徳川慶喜や松平春嶽から京都守護職の任を依頼された容保でしたが、当時、容保自身が病に伏しており、藩財政も厳しかったため、その任を頑なに固辞していました。
しかし、会津藩の祖である保科正之は会津藩家訓を残しており、それによれば、「徳川家に忠義を尽くせ。それを破る藩主がいれば、その者は私(保科正之)の子孫ではない。」とありました。
会津藩ではこの家訓が精神的支柱であり、絶対的な力を持っていたため、慶喜らはこの家訓を挙げて、「保科正之公ならお受けしたはずだ」と容保に迫ります。
これには容保も断ることができず、家臣の反対を押し切って京都守護職の任を引き受けます。
新撰組を雇い、池田屋事件が勃発
藩財政に苦しんでいた会津藩は、京都の治安維持にかかる支出を抑えるために、新撰組を雇っていました。
その新撰組というのも、なかなかの乱暴者の集まりだったようで、御所焼き討ちと徳川慶喜・松平容保の暗殺計画を立てていた尊王攘夷派を襲撃し、計画を未然に防ぎます。
俗にいう池田屋事件ですが、これにより新撰組の名が世間に轟き、明治維新を1年遅らせることになったと評されています。
会津藩が新政府から目の敵に
容保が京都守護職に就いていたときに、八月十八日の政変で長州藩士や攘夷派の公家を京都から追い出した功績により、孝明天皇は容保に絶大な信頼を寄せていました。
孝明天皇の死去と大政奉還
しかし孝明天皇が崩御すると、倒幕への流れが強くなり、同盟を結んだ薩長両藩は幕府に対して大政奉還を求めます。そして慶喜はその要求を意外にもあっさりと受け入れます。
王政復古の大号令で京都守護職を解任
そして王政復古の大号令で実質的な権力が新政府に移ると、新政府側は今まで敵対していた会津藩に対し、京都守護職を解任したり、朝議に参加させなかったりと、積年の恨みを晴らそうとします。
鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争勃発
この新政府の対応に、会津藩士たちは「君辱しめらるれば臣死す、という言葉があるが今がその時である」と憤激します。
容保が家臣たちの怒りを抑えようとしますが、もはや彼の力だけではどうにもできず、朝廷に逆らうことを嫌がっていた慶喜を説得し、容保は新政府と徹底抗戦する覚悟を決めました。
そして、戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いが勃発しますが、結果として旧幕府側は敗北し、容保と慶喜は江戸へ退却します。
会津戦争の勃発
鳥羽伏見の戦いに破れた容保は、新政府へ恭順する意を示すために会津へ帰国して謹慎しますが、新政府は徹底的に会津藩を討伐する方向に動きます。
新政府は仙台藩や米沢藩などに会津藩討伐の命を下しますが、会津藩に同情的だった両藩は会津藩と奥羽越列藩同盟を組んで、逆に新政府と戦いを起こすことに。
これがいわゆる会津戦争ですが、最終的に新政府に敗北を喫し、白虎隊など、会津の悲劇を引き起こすことになりました。
松平容保のその後
会津戦争で敗れた松平容保は、新政府によって東京に護送されました。戦争によって多くの悲劇を体験した会津の領民は、容保を恨んで、その時の護送に誰も見送りに行かなかったと言います。
容保は晩年、日光東照宮の宮司に任命され、その責務を務めました。
1893年(明治26)12月5日、肺炎にて死去。享年59歳の生涯を終えました。
松平容保と新撰組の関係
京都守護職を任された会津藩が、新撰組の協力を得て京の治安を維持していたことについて先に述べましたが、会津藩と新撰組はもともと、それぞれの「忠義」を貫くという一点において深く共鳴していました。
近藤勇が率いる壬生浪士組は、「尽忠報国の誠」を果たすことを目的としており、松平容保が貫こうとした会津藩の「徳川家に対する忠義」と共鳴し、新撰組が誕生したのです。
新撰組は、容保率いる会津藩と運命共同体となり時代の潮流を戦い抜きます。そして、戊辰戦争最後の舞台となる箱館戦争で土方歳三が戦死したことにより、新撰組はその歴史を閉じることになりました。
松平容保はイケメン?
この記事のアイキャッチ画像として松平容保の写真がありますが、確かにイケメンですね。年齢の割には少し童顔だったようです。
京都の宮中に容保が現れると、女官たちがそわそわし出したというエピソードがあります。
松平容保の子孫や家系図を解説
松平容保の子孫は現代でも続いており、それぞれの分野で活躍されています。直系の家系である容保の子供たちや、それに連なる子孫たちを紹介していきます。
容保の子供
長男・松平容大(かたはる)
容保の長男。若い頃から手のつけられない問題児だったようで、学校の校則違反などを繰り返し、退学処分を受けそうになったこともあります。
陸軍へ入隊し、日清戦争に参加しました。最終的には陸軍大尉を務めています。
次男・松平健雄(たけお)
容保の次男。伊佐須美神社の宮司を務めました。健雄の息子は元・福島県知事の松平勇雄です。
三男・山田英夫(ひでお)
容保の三男。陸軍歩兵中佐を務め、山田顕義の弟である伯爵・山田繁栄の養嗣子となっています。
六男・松平恒雄(まつだいらつねお)
容保の六男。外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣を歴任した政治家であり、息子の松平一郎は東京銀行会長を務めています。
七男・松平保男(もりお)
容保の七男。海軍少将を務めました。
現代に続く子孫
徳川恒孝(つねなり)
徳川宗家第18代当主。容保のひ孫に当たる人物で、日本郵船副社長やWWFジャパン会長を務めました。2017年には、公益財団法人日本美術刀剣保存協会の名誉顧問にも就任しています。
徳川家広(いえひろ)
徳川宗家第19代当主。恒孝氏の息子で、容保の玄孫に当たる人物です。幼年期をアメリカで過ごした経験があり、日本の政治経済評論家、翻訳家、作家として活躍しています。
徳川慶朝(よしとも)
徳川慶喜のひ孫で、容保のひ孫でもあります。カメラマンとして活躍し、徳川家の遺跡などの写真撮影を手掛けるようです。