天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺から天をも焦がす勢いで炎が上がり、時の天下人・織田信長(おだのぶなが)が自刃します。
この日本史上もっとも劇的と言われるクーデターを成功させた人物が惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)明智光秀(あけちみつひで)です。
歴史の教科書にも名前の記載がある有名な戦国時代の武将ですが、出生からすでに謎の多い人物で、信長襲撃のクーデターの理由すら定まった説がいまだになく、またその死因に関しても諸説が立ち並ぶ、戦国時代もっとも謎の多い人物です。
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公にも選ばれ、明智光秀役は長谷川博己(はせがわひろき)さんが演じることが発表されました。
今回は明智光秀の遺した多くの謎について、家紋や城、天海だという説も含めて迫ってみたいと思います。
生い立ち
織田信長の天下布武に従った多くの武将の中でも、その知名度の高さは徳川家康(とぐがわいえやす)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)に並ぶほどの人物である明智光秀ですが、なぜか出生の日時や場所もはっきりしていません。
『明智軍記』『細川家文書』は享禄元年(1528年)、『細川家記』が大永6年(1526年)、『当代記』には永正13年(1516年)とあり、天文9年(1540年)生まれの説もあります。
どれが正しいという根拠がないため今も定まっていません。
生まれた場所は『美濃国緒旧記』に記されている土岐頼兼(ときよりかね、のちに改名して明智頼兼)が美濃国可児郡明智庄長山に築城した明智城と言われていますが、実は美濃国にはもう1つ恵那市明智町城山に明智城があり、どちらが光秀が誕生した明智城であるかははっきりしていません。
その上、清和源氏である土岐氏の流れを汲む明智氏ですが、美濃国での身分は小土豪程度の扱いで、光秀の父親も江戸時代に描かれた諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明の4人の名前が上がるほどに適当な扱いです。
このように出生に関しても何一つ確証のない人物、それが明智光秀なのです。
織田信長の家臣になるまで
明智光秀が歴史上有名になるのは織田信長の家臣になってからですが、それ以前はどこで何をしていたのでしょうか?
明智氏は美濃国守護職土岐氏の一族だったので光秀も土岐氏に仕えていたのですが、天文21年(1552年)に土岐頼芸(ときよりあき)が斎藤道三(さいとうどうさん)に美濃を追放された争乱時に明智氏は滅亡して光秀は美濃を離れた説があります。
また、土岐頼芸追放後は斎藤道三に仕え、弘治2年(1556年)の道三・義龍父子が戦った長良川の戦いで敗れた道三方に明智氏がついたため滅亡して、光秀は美濃を離れたという二つの説が史料として残っています。
明智氏滅亡後は一般には美濃国を出て越前国の朝倉義景に仕えたとされていますが、熊本大学にある米田家文書(こめだけもんじょ)には1565年の永禄の変(えいろくのへん)で足利義輝と三好、松永連合軍が戦った時に明智光秀が高島田中城に籠城していた記述があり、この時点で光秀が将軍・足利義輝の家臣であった可能性も指摘されています。
義輝の死後、朝倉義景に仕えたのか、もともと朝倉義景に仕えていて義輝援軍のため高島田中城に派遣されていたのかは不明ですが、この後は朝倉義景のもとで15代将軍の資格を持つ足利義昭の側に仕えることになったようです。
織田信長の家臣となり、一気に頭角を現す
家臣も領地も持たない足利義昭が15代将軍となるには有力な戦国大名の後ろ楯が必要でした。
最初は義昭の親戚筋に当たる若狭国守護・武田義統(たけだよしずみ)を頼りますが、内乱と若狭一国の兵力では三好氏、松永氏に対抗できるわけもなく、次に越前の戦国大名・朝倉義景を頼ります。
所領の広さといい、越前国の立地など、上洛するには朝倉家は好条件の大名家でしたが、朝倉義景に覇気がなく越前の太守で満足するような人物でした。
今川義元を桶狭間で破り、尾張を統一して美濃の斉藤氏も滅ぼして濃尾二国の太守となった織田信長を足利義昭に推挙した光秀は自らこれを仲介、両者を結び付けることに成功して織田信長にも目を掛けられる存在となります。
光秀が織田信長を推挙したのはその実力だけでなく、信長の正室だった濃姫(斎藤道三の娘)が光秀の従兄妹だと言われており、この縁を手繰ったのだとも言われています。
足利義昭ではなく、信長を主君に選ぶ
信長と義昭の両方の家臣となったような状況であった光秀でしたが、その非凡な才能で信長、義昭の間を巧みに渡り歩き、義昭上洛後は木下秀吉(きのしたひでよし、のちの羽柴、豊臣秀吉)、丹羽長秀(にわながひで)らと京都奉行に就任し、幕府の格式や公家のしきたりに精通していた光秀は重宝されますが、両雄並び立たずの例え通り、信長と義昭の対立は激しさを増していきます。
三好、松永の執拗な攻撃も、光秀を初めとする織田諸将の活躍で撃退、織田軍の近畿平定も着々と進んでいき、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは浅井長政の裏切りで窮地に立った織田軍を撤退させるために羽柴秀吉とともに殿軍を務めてこれに成功。
帰還した後は浅井長政を孤立させるべく近江の小豪族の懐柔を担当しています。
比叡山焼き討ちに参戦
この頃に足利義昭より山城国久世荘(現在の京都市南区久世)の領地を与えられていますが、主君を信長一人にしぼろうと考え始めていた光秀には有り難迷惑なことだったかもしれません。
翌、元亀2年(1571年)に三好勢が四国から摂津へ攻め上がると、呼応した石山本願寺の一向宗が挙兵、光秀は摂津へ出陣し三好勢を阿波へ押し返して比叡山焼き討ちに参戦。
全山を焼き尽くすと信長軍主力は撤退し掃討作戦は光秀が引き受け近江の寺院をことごとく降伏させました。
信長家臣団で最初の城持ち大名となる
足利義昭を信長に引き合わせ、その後は軍事、行政両面で非凡な才能を見せ、信長の窮地を救ったり、人身掌握の巧みさで領地経営を行い織田軍の領地の安定に尽力した結果、近江国志賀郡5万石を信長より賜り、坂本への築城も許されます。
信長麾下の武将の中では柴田勝家(しばたかついえ)や丹羽長秀ら古参を差し置いて、最初の城持ち大名へと出世します。
これによって実質的に織田信長の家臣になったため、この年の12月に義昭に対して暇乞いを願い出ますが義昭はこれを拒否、光秀を手放そうとはしませんでした。
室町幕府の崩壊
元亀4年(1573年)2月、義昭が信長に反旗を翻し挙兵すると光秀は石山城、今堅田城を信長側の武将として攻撃、信長は義昭との講和も視野に入れながら義昭への包囲を狭めて行きますが、講和は破綻。
義昭は槇島城に籠城しますが光秀らに攻められて降伏、追放されて毛利氏を頼ることになります。
これによって15代続いた室町幕府は事実上崩壊し、義昭に仕えていた武将の多くは光秀の配下となりました。
坂本城が完成するとここを拠点に近畿や越前の占領行政を担当、また新しく京都所司代となった村井貞勝(むらいさだかつ)とともに京都の行政も担っていました。
織田軍は四面楚歌、内も外も敵だらけ。
天正3年(1575年)信長より九州の名族・惟任(これとう)の姓を賜り、日向守に任ぜられ名実ともに大名となった光秀は、本願寺・三好氏との高屋城の戦い、武田勝頼との長篠の戦い、越前一向一揆平定戦へと連戦を重ねて軍功をあげると、丹波攻略に着手します。
丹波は追放された足利義昭の小豪族が乱立しており、緒戦に赤井直正の黒井城を攻めますが、八上城の波多野秀治らの裏切りにあって敗走します。
光秀は丹波攻略を行いながら織田軍団全体の戦闘にも出兵し、本願寺との天王寺の戦いにも出陣しますが、本願寺勢の猛攻にあい、原田直政が戦死するなど大打撃を受けます。
光秀も相次ぐ出陣による過労が祟り、一時は危篤状態にもなりますが、約2ヶ月で前線に復帰して再び丹波攻略へと向かいます。
正室・煕子(ひろこ)の病死
この年の11月、不遇の時代も光秀を支え続けてくれた正室・煕子(ひろこ)が病死。
天正5年(1577年)雑賀攻めに参加の後、信貴山で信長に反旗を翻した松永久秀を攻め滅ぼし、再び丹波に戻り亀山城を攻略すると八上城を包囲し波多野氏を孤立させます。
天正6年(1578年)には毛利攻めの羽柴秀吉の後詰めのために播磨に出陣して神吉城を攻め落とし、続いて反乱を起こした荒木村重の有岡城攻略戦にも参加しています。
本能寺の変
天正7年(1579年)八上城の波多野氏を滅ぼし、黒井城を攻略して足掛け4年におよんだ丹波平定に成功すると、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)と協力して隣の丹後も平定します。
この功績に対して織田信長は「光秀の丹波国での働きは天下の面目を施した」と絶賛し、丹波29万石を加増、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶など畿内の有力武将を光秀の組下大名として畿内240万石約6万の軍勢が光秀の指揮下に入り、畿内方面軍が誕生します。
天正10年(1582年)3月、織田信忠を主力とする甲州征伐に参陣、ほとんど戦闘することなく坂本に戻ると、上洛してくる徳川家康の饗応役に任ぜられますが、1ヶ月も経たないうちに解任され、毛利征伐中の羽柴秀吉の援軍を命ぜられます。
信長を討つ
5月26に坂本城を進発した明智光秀は丹波亀山城に入り軍勢を整えると、6月2日に亀山城を出陣、途中、明智秀満(あけちひでみつ)ら明智軍の重臣を集めて本能寺に宿泊中の織田信長を討つ旨を伝えそのまま進軍、軍兵には真の目的を伝えず本能寺に到着。
明智軍1万3千人に対して信長はわずか100名では守りきれるわけもなく、信長は自害、二条城に立て籠った嫡男・織田信忠も光秀軍によって討ち取られます。
山崎の合戦
戦闘が終息しても自害したはずの信長の遺体が見つからず、信長死去の確証が得られないまま、光秀はいち早く京都の治安回復をはかり、信長の本拠である安土城への進攻と近江平定を目指しますが、山岡景隆(やまおかかげたか)の抵抗にあって思うようにいきません。
朝廷に金銀を贈り信長征伐を正当化しようとしますが、朝廷から光秀への使者となった吉田兼見(よしだかねみ)には謀反と断じられています。
備中で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉は本能寺の変の急報に接するとすぐに毛利と和睦、旧織田諸将に自分に味方するよう要請しながら山陽道を駆け抜け、本能寺の変から11日後には山城国山崎に着陣し明智軍と対峙しています。
また畿内方面軍として明智光秀の組下となっていた細川藤孝、筒井順慶らは領地を動こうとせず、摂津に所領を持つ池田恒興(いけだつねおき)、中川清秀(なかがわきよひで)、高山右近(たかやまうこん)らは秀吉軍に参陣し、山崎では羽柴軍2万7千(4万の説もあり)明智軍1万6千(1万余の説もあり)が激突、勝負は数と勢いに勝る羽柴軍が明智軍を圧倒しました。
死因
光秀は数騎の護衛とともに坂本城へ落ち延びる途中に落武者狩りの百姓の竹槍に刺され落命したと伝えられています。
明智光秀は天海?
まことしやかに囁かれる日本史の噂話。その中でも「光秀=天海説」は多くの謎や事実を含んで今でも論議の対象となっています。
南光坊天海は天台宗の僧侶で徳川幕府成立当初の幕僚で徳川家康の側近でした。
天海は慶長4年(1599年)に喜多院(きたいん・川越大師)の第27世住職になってからの史料は数多く存在しますが、それ以前に関しては全く謎に包まれており、当の天海自身も弟子に「生まれた日時も場所も忘れてしまった。仏門に入った人間は俗人であったときのことなど意味のないことなのだ」と語り、天海の素性は誰一人として知らないと『東叡山開山慈眼大師縁起』に書かれています。
この説は生まれや年齢がはっきりしない歴史上の有名人物が結びつけられた典型的な例と言え、
- 天海が日光で明智平という地名をつけた。
- 日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋が使われている。
- 山崎の合戦以降に光秀と名乗る人物が比叡山に石碑を寄進している。
- 春日局が天海と会ったときにお久しぶりですと挨拶したこと。
- 天海と光秀の筆跡が酷似していること。
があげられていますが、この程度のことで天海が光秀と同一人物と言えるはずはありません。
今のところは歴史上の噂話と言ったところではないでしょうか。
家紋
桔梗紋は清和源氏の流れを汲む土岐氏が使用した家紋で、土岐氏支流の明智氏も当然、桔梗紋を使用しました。
明智光秀が使用したのは水色桔梗と言われる彩色紋で、鎌倉幕府の後家人であった土岐光衡(ときみつひら)が戦の時に兜に桔梗の花を挟んで参戦して勝利したのを記念して家紋や旗印にしたのが始まりとされています。
鎌倉時代に土岐氏は一族の支流を美濃国内に土着させ、その土地の有力豪族として、家紋から名前をとった「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成、美濃国での土岐氏の支配権を確立していったのです。
清和源氏の流れを汲む名門土岐氏だけあってこの桔梗紋を使用した人は数多くいます。
武田信玄の家臣で武田四天王の一人に数えられる山県昌景、豊臣秀吉の家臣で虎退治と熊本城築城で有名な加藤清正、海援隊を創設者で薩長同盟の立役者である坂本龍馬、長州征伐や戊辰戦争で長州藩士を指揮し勝利を納めた事実上の日本陸軍の創始者の大村益次郎などが桔梗紋を使用しています。
名言
名言①
明智光秀と言えば最初に思い付くのはやはり「敵は本能寺にあり」でしょう。
丹波亀山城を出陣して桂川を渡った辺りで全軍に向かって明智光秀が馬上から叫んだと言われていますが、クーデターを実行しようとする武将、それも超一流の軍略家である明智光秀が軽率にこのような発言をするとは思えません。
後世の作り話と考えるのが妥当だと思われますが、のちに小説、映画、ドラマのタイトルに使われたり、今ではことわざ辞典にも載るほどの名言となっています。
名言②
もう一つ明智光秀関連の言葉で「天下分け目の天王山」という言葉が生まれました。
スポーツや勝負事での重大局面の比喩に使われています。
これは明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦でこの天王山をとった方が勝利するといわれていたことが由来となっています。
事実、山崎の合戦だけではなく南北朝時代の京都争奪戦や応仁の乱、禁門の変や鳥羽伏見の戦いでもこの天王山が勝敗の分かれ目となりました。
名言③
最後に明智光秀が語ったとされる名言を一つご紹介しておきます。
正直に真っ直ぐに生きようとした明智光秀らしい発言です。
2020年の大河ドラマ
2019年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」に続いて、2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主役にした「麒麟がくる」になると発表されました。
脚本は1991年第29作目の大河ドラマ「太平記」を書いた池端俊策(いけはたしゅんさく)氏、主役の明智光秀を演じるのは長谷川博己(はせがわひろき)さんです。
長谷川博己さんは1977年3月7日生まれの現在41歳、大河ドラマ出演は2013年の「八重の桜」以来二作目になります。
2011年の日本テレビ系ドラマ「家政婦のミタ」で主人公が家政婦としてやって来た家庭の父親役でブレイク、その後はTBS系ドラマ「小さな巨人」で主演、2016年の映画「シン・ゴジラ」でも主演し、第40回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞、遅咲きのいぶし銀2枚目俳優が明智光秀を演じるとどのような新しい面が見られるのか今から楽しみです。
さいごに
武田信玄、上杉謙信をはじめとする戦国大名の誰もがなし得なかった時の最高権力者であった織田信長をものの見事にワンチャンスで葬り去った明智光秀。
しかも織田信長の確固たる後継者とまわりが認めていた嫡男・信忠をも同時に葬り、天下を手中におさめました。
ところが、そこから天下を掌握する手段は織田信長を葬り去ったのと同一人物とは思えないやっつけ仕事で、多くのミスを積み重ねてしまい、わずかに本能寺の変から11日後には光秀自身もこの世には存在しませんでした。
何を望み、何の目的で織田信長を葬り天下を取ろうとしたのでしょうか。その真の目的や動機は本能寺の変から400年以上たった現在に至っても解明されていません。
明智光秀が起こした本能寺の変の謎が解けたとき、日本史に新た大きな1ページが加わることは間違いありません。