江藤新平とは、幕末から明治にかけて活躍した佐賀藩士です。
明治政府樹立後に行われた戊辰戦争では旧江戸幕府軍勢力制圧のために東征大総督が設置され、その軍監となりました。
明治維新後の明治7年(1874)、明治政府に対し島義勇とともに佐賀の乱を起こすも明治政府の勝利に終わり、江藤新平は十分な裁判が行われないまま死刑となり、嘉瀬刑場で処刑され、その首は千人塚でさらされました。
そんな江藤新平の生涯と佐賀の乱、大久保利通との関係性や子孫について解説していきます。
江藤新平の生い立ち
江藤新平は天保5年(1834)2月9日、現在の佐賀県佐賀市八戸に位置する肥前国佐賀郡八戸村の父・江藤胤光と母・浅子の長男として誕生しました。
嘉永元年(1848)14歳の頃、藩校である弘道館に入学します。
優秀な成績であったため学費の一部は免除されていましたが、父・江藤胤光が郡目付役を解雇され、また自宅での謹慎処分を受けたため、生活は困窮となり進学することができず、弘道館教授であった枝吉神陽の私塾に通うこととなりました。
この私塾で、江藤新平は神道や尊皇思想を学んだとされ、後の人生に影響を与えたとされています。
この時、江藤新平は生活が困窮していながらも「人智は空腹よりいずる」という言葉を口癖にし、強がっていたとされています。
嘉永3年(1850)、枝吉神陽は義祭同盟を結成します。
この義祭同盟とは南北朝時代に活躍した、楠木正成とその父・楠正行の忠義を讃える儀式を執り行う崇敬団体で、尊皇思想を持っていた枝吉神陽は参加者に尊皇攘夷論を説いていました。
この同盟には江藤新平の他、大隈重信、副島種臣、大木喬任、島義勇らも参加しています。
開国の必要性を訴える
その後、日本に近づく外国船やアメリカのペリー艦隊、ロシアのプチャーチンなどが日本に来航し開国を求めていることから、22歳になった江藤新平は安政3年(1856)、日本の開国の必要性を訴えた『図海策』を出版します。
安政4年(1857)には江口千代子と結婚しました。
謹慎処分を受ける
文久2年(1862)江藤新平は佐賀藩から脱藩し、活動場所を京都に移しました。
京都に移った江藤新平は、長州藩士・桂小五郎、公家・姉小路公知と交流を持ち、2か月後には佐賀に戻ります。
一般的に、脱藩したものは死罪となりましたが、佐賀藩主・鍋島直正は江藤新平の考えや思想を高く評価したため、江藤新平は死罪にはならず無期限の謹慎処分となりました。
謹慎処分を受けた江藤新平は寺子屋師匠を務める一方で、密かに同士と通じ合い、江戸幕府が長州藩の討伐を目的とした長州征伐における出兵問題では鍋島直正に献言を行うなどしていたとされています。
その後、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、長く続いた江戸幕府は消滅となり慶応3年(1867)12月に江藤新平の謹慎処分は解除となり目付として職に復帰します。
戊辰戦争の勃発
この頃、薩摩藩と長州藩は岩倉具視と手を結び、慶応3年(1868)12月9日に王政復古の大号令を行います。
この王政復古の大号令とは新政府の樹立を宣言したもので、明治新政府が誕生すると、江藤新平は同じく佐賀藩士であった副島種臣とともに京都に派遣されました。
明治政府を樹立した長州藩、薩摩藩、土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力、奥羽越列藩同盟が戊辰戦争を起こします。
この戦いにおいて明治政府は、旧幕府軍勢力を抑えるために臨時の軍司令官である東征大総督を設置しました。
江藤新平はこの東征大総督の軍監に任命され、江戸へと土佐藩士・小笠原唯八とともに視察に向かいます。
新政府軍の西郷隆盛と旧幕府の全権を担っていた陸軍総裁・勝海舟が会談を行い、江戸城を新政府軍に引き渡すといった江戸城開城が決定しました。
江戸城開城が決定すると江藤新平は江戸城内にある文書類を接収し、京都へ帰ると、岩倉具視に対し江戸を東京と改名することを大木喬任と連名で献言しました。
上野戦争
また旧幕臣らで結成された彰義隊が未だ活動を続けていたため、大村益次郎らとともに彰義隊の討伐を主張し、上野戦争においてアームストロング砲を用いた戦術を使用し彰義隊を破ります。
明治政府はこれらの働きを高く評価し、明治2年(1869)に江藤新平に賞典禄100石を与えました。
明治新政府の官吏として
その後、江藤新平は明治政府において会計局判事となり、会計や財政、都市問題などの解決に力を注ぎました。
同年7月、江藤新平が岩倉具視に対し江戸を東京に改名するといった献言が通り、江戸は東京と改称されます。
明治3年(1870)1月になると、佐賀に戻り着座に就任し藩政改革を行うも、再び呼び戻され、同年11月に太政官中弁となりました。
その翌年、江藤新平は虎ノ門において佐賀藩の足軽に襲撃され負傷します。
明治4年(1871)2月には国家機構の整備を行う制度取調専務となり士農工商を説き、また官僚の箕作麟祥らとともに民法典編纂などを行いました。
翌明治5年(1872)になると司法卿の他、数々の役職を歴任します。
この間、警察制度整備、士農工商、司法制度の整備などを行いました。
三権分立の導入を勧める
官吏の汚職に厳しかった江藤新平は山縣有朋が関与したとされる山城屋事件、井上馨が関与したとされる尾去沢銅山事件を厳しく追及し、一時的に2人を辞職に追い込みました。
一方で、西欧的な三権分立の導入を勧めていた江藤新平に対し、当時は行政権=司法権と考えられていたため保守派から猛反対され、江藤新平の主張は通ることはありませんでした。
愛国公党を結成
明治6年(1873)朝鮮国を武力でもって開国させようという征韓論を西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎らとともに主張し、同年10月24日に官職を辞め民間に降りました。
明治7年(1874)1月10日に愛国公党を結成すると憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などを掲げた自由民権運動の発端となる民撰議院設立建白書に板垣退助、後藤象二郎らとともに署名します。
江藤新平は、佐賀で明治政府に対する士族反乱が起きていたため、佐賀に帰郷し武力ではなく話し合いで解決しようと考えていましたが、江藤新平が佐賀に帰郷することは対立関係であった大久保利通にとって江藤新平を排除するいい口実になってしまう。と同じく佐賀藩主であった大隈重信らから反対を受けました。
しかし、江藤新平はその反対を押し切り佐賀へと向かいます。
憂国党とともに反乱計画を企てる
佐賀へ江藤新平が帰郷したということが大久保利通に知らされると、江藤新平がまだ佐賀入りしていないにも関わらず、大久保利通は明治7年(1874)2月5日、佐賀県にいる江藤新平に対し討伐命令を出しました。
2月11日、江藤新平は佐賀入りを果たすと明治政府に士族反乱を起こしていた憂国党の島義勇と会談します。
そもそも佐賀藩士をなだめるために佐賀に帰郷したのですが、佐賀征韓党首領として擁立され、政治主張の異なる憂国党と手を結び、江藤新平は憂国党とともに政府に対する反乱計画を立てました。
佐賀の乱の勃発
同年2月16日夜、武装蜂起した憂国党とともに士族反乱である佐賀の乱を起こします。
佐賀軍は佐賀城に駐留していた岩村通俊率いる熊本鎮台部隊半大隊に攻撃し、約半数に損害を与えました。
大久保利通が直接指揮をとっていた東京、大阪の鎮台部隊が九州に到着すると佐賀軍は政府軍部隊を迎え撃ち、朝日山方面、三瀬峠付近に佐賀軍を前進させます。
一時佐賀軍が優勢でしたが、政府軍に押され朝日山方面、三瀬峠付近において佐賀軍は敗走となりました。
援軍を断られる
この中、江藤新平は征韓党を解散して逃亡すると同年3月1日に西郷隆盛と会い加勢を依頼するも断られたため高知にいる林有造、片岡健吉にも加勢を依頼しますが、拒否されます。
このため東京にいた岩倉具視に直接意見陳述をするため、上京しましたが、その途中、手配写真が出回っていたため、高知で捕えられ佐賀へと連れ戻されてしまいました。
以前、江藤新平は被疑者を逮捕するための手段である指名手配の制度・写真手配制度を確立していましたが、自身の作ったこの制度によって捕えられたということになります。
江藤新平の最期
捕えられた江藤新平は同年4月8日、佐賀裁判所で司法省時代の部下・河野敏鎌に裁かれることとなります。
河野敏鎌は江藤新平を取り調べましたが、しっかり釈明を聞かないまま死刑宣告をしたため4月13日の夕方、嘉瀬刑場において処刑されました。
処刑された江藤新平の首は、嘉瀬刑場から離れた千人塚で晒されました。
子孫
江藤新平は安政4年(1857)に江口千代子と結婚しました。
2人の間には長男・熊太郎と次男・江藤新作という子供が誕生しています。
長男の熊太郎は23歳で亡くなってしまったため、次男の江藤新作が江藤新平の後を継ぎました。
次男・江藤新作
文久3年(1863)11月27日に誕生します。
佐賀の乱において父・江藤新平が亡くなると、父の弟・江藤源作に引き取られ育てられました。
結婚すると、長男・江藤冬雄、次男・江藤夏雄が誕生します。
孫・江藤夏雄
江藤新作の次男です。
満鉄職員、満州国官吏、衆議院議員などを務めました。
子供には国会議事堂前で自決した江藤小三郎がいます。
ひ孫・ 江藤小三郎
江藤夏雄の三男です。
昭和44年(1969)の建国記念の日に国会議事堂前で自決し、亡くなりました。
ひ孫・江藤兵部
長男・江藤冬雄の子供です。
航空自衛官となり、最終位は航空総隊司令官とされています。
甥・江藤源九郎
弟・江藤源作の子供で陸軍少将、衆議院議員を務めました。
最後に
江藤新平は佐賀の乱で捕えられ、釈明の十分に与えられないまま処刑となった人物です。
佐賀の乱で捕えられた際、きっかけとなったのは手配写真でした。
この手配写真は以前に自身が写真手配制度の確立を行ったことから作成されたもので、皮肉にも、確立者自身が被適用者第1号となってしまいました。