タイムマシンで行くならどの時代を希望しますか?という問いに1位、もしくは2位に必ずランクインする戦国時代。
NHK大河ドラマでも歴代視聴率1位だったのが渡辺謙主演の「伊達政宗」、2位が中井貴一主演の「武田信玄」です。
歴史好きな人々を惹き付ける魅力を数多く持つ戦国時代とは、どんな時代だったのでしょうか?
戦国時代の日本の領土地図や各大名の勢力図、大名、庶民の食事や身分が低く見られていた女性たちの生活などを探求しながら、戦国時代の年表やその時代を生きた武将の紹介もしていきたいと思います。
戦国時代とはどんな時代だった?
1467年から11年間にわたって、京都を焼け野原にした応仁の乱により、室町幕府の統治体制である中央の管領制、地方の守護職制が崩壊、足利将軍家の権威は失墜し、地方では実力ある守護職や守護代、豪族や国人らが中央政府から独立して土地の領有権を確立し、独自の自治を開始します。
室町幕府の体制下では守護職や管領と言われた名門の家柄でも実力がなければ没落し、身分の低い者でも実力さえあれば成り上がる、下克上の世の中になれば当然、隣接する領主間には争いが起こり、戦によってこれを解決しようとし勝利した側がより大きな領土を支配していきます。
これが巨大な領土と軍事力、経済力を持つ戦国大名と言われるようになり、互いに覇を競うようになっていきます。
戦国時代の定義
戦国時代は応仁の乱が始まった1467年をはじめとし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐を終わりとする事が多いですが、終わりに関しては1573年の織田信長による足利義昭追放(室町幕府の滅亡)までを戦国時代、これ以降を安土桃山時代または織豊時代として分ける場合もあります。
各地で誕生した戦国大名の勢力地図
下克上の戦国時代に突入した日本はどのような勢力がどこを支配していたのでしょうか?
地域別に見てみましょう。
東北地方
奥羽は中央政権から遠かったことや守護や国人、豪族間での婚姻、養子縁組が盛んに行われており、大きく統一した勢力が誕生するのに時間を要しました。
1560年代に登場した常陸国の戦国大名・佐竹義重(さたけよししげ)が北関東を勢力下に置き、南陸奥、下野にも勢力を伸ばします。
この佐竹と奥州の覇を競ったのが出羽国の一部と奥羽国を支配していた伊達政宗(だてまさむね)です。
関東地方
1493年に堀越公方・足利政知(あしかがまさとも)の死去に伴う内乱に乗じた伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき、のちの北条早雲)が伊豆国を平定し、相模、武蔵へと勢力を伸ばします。
この北条氏と関東管領・上杉氏が各地で激突するも1546年には北条氏が関東をほぼ制圧し、上杉氏は関東管領職を越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に譲ることになります。
甲信越地方
甲斐国は守護職武田氏が一時期凋落しており、小豪族による内乱状態であったのを武田信虎(たけだのぶとら、武田信玄の父)が統一、信濃への進出も開始して信玄の時代には信濃国もほぼ手中に収めます。
信濃国は守護職・小笠原氏をはじめ諏訪氏、村上氏など豪族による分割統治が長く続いていましたが、武田信玄の信濃侵攻によって各個撃破され、北信濃の一部を除き武田氏に支配されました。
越後国は守護代・長尾為景(ながおためかげ)が力を持ち、国内統一を目指しますがその子・長尾景虎(ながおかげとらのちの上杉謙信)の代でようやく越後を平定、戦国大名として地位を確立します。
東海地方(愛知、岐阜を含む)
駿河国の守護職・今川氏は遠江国の支配をめぐり斯波氏と長年にわたり対立しますが、今川氏親(いまがわうじちか、今川義元の父)の時に遠江を平定、三河国は松平氏の支配権が確立していましたが、当主が家臣に暗殺されて一気に弱体化が進み、ここにも今川氏の支配が及ぶようになります。
尾張国は守護職・斯波氏が守護代であった織田氏により滅亡、以降は織田氏内での権力闘争を勝ち残った織田信秀(おだのぶひで、織田信長の父)によって実質的に支配されていましたが、完全な統一は信長の時代まで待つことになります。
美濃国は守護職・土岐氏に内紛があり、その間隙を突いて斎藤道三(さいとうどうさん)が成り上がり、1542年には土岐頼芸(ときよりあき)を追放して美濃を支配しました。
北陸地方
越中国は守護代・神保氏と椎名氏が抗争を続けていましたが、越後国から上杉勢が侵攻してくると神保氏は滅び、越中は上杉の支配下に入りました。
能登国は守護職・畠山氏と家臣の長氏らとの内紛が続き、上杉勢に攻められて軍門に下ります。
加賀国は守護職・富樫氏を滅ぼした一向一揆が自治を行いましたが、織田軍の侵攻により100年の支配に終止符が打たれました。
越前は守護職・斯波氏を追い出した朝倉氏の支配が長く続きましたが、織田軍によって朝倉氏は滅亡しました。
近畿地方
山城国は将軍家を補佐する者が実質的支配をおこなっていましたが、近江国の六角氏が実質的支配しており、その近江国は当初、六角氏と京極氏が対立していましたが、京極氏は浅井氏に取って代わられ以降は六角対浅井の抗争が続きました。
河内国の畠山氏、但馬国の山名氏、丹後国の一色氏、若狭国の武田氏は守護職がそのまま戦国大名として生き残ったのですが、国外へ進出する力はありませんでした。
伊賀国は小豪族による合議制によって国を支配し、その中には伊賀忍者衆も混ざっており、となりの大和国は興福寺別当が守護職を代行していたとの説があり、その後は畠山氏と北畠氏が分割統治しており、その間隙を縫って筒井氏、松永氏が台頭してきます。
紀伊国は高野山などの寺社勢力が強く守護職・畠山氏の影響力はほとんどありませんでした。
伊勢、志摩国は国司である北畠氏の支配権が完全に確立しており、晴具(はるとも)の時代に戦国大名へと変貌することとなりました。
中国地方
中国地方は九州北部を含めて7ヵ国をしていた大内氏と山陰に基盤を築いた尼子氏が対立して争いましたが、安芸国の豪族毛利氏が元就(もとなり)の時代に一気に勢力を拡大し、大内氏、尼子氏ともに滅ぼして中国地方の覇権を確立しました。
四国地方
讃岐、阿波の2か国は管領家の細川氏が支配していましたが、のちに三好氏がこれにかわり、伊予国は河野、西園寺などが割拠して存在していたため統一勢力は誕生しませんでした。
土佐国は一条氏が守護職・細川氏に取って代わりましたが、一条氏の援助で再興された長宗我部氏が一条氏を追放して土佐を平定、1585年に長宗我部氏によって四国は統一されます。
九州地方
鎌倉時代に筑前・肥前・豊前が少弐氏、筑後・肥後・豊後が大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏と3分割して統治する体制が確立しましたが、島津氏がそのまま戦国大名として生き残ったのに対して、少弐氏は中国、九州北部に巨大な勢力を築いた大内氏との抗争に敗れ、家来であった龍造寺氏に取って代わられます。
しかし、その龍造寺も鍋島氏によって滅びます。
島津氏は九州を北上し大友氏を破り、九州統一を目指してなおも北上を続けますが、ほぼ日本を統一した豊臣軍によって抑え込まれ降伏することになりました。
戦国時代の食事、食べ物
戦に明け暮れる戦国時代の武将の食事とはどのような材料で、どのような工夫がなされていたのでしょうか?
特別なことがない限りは朝と昼過ぎの1日2食だったそうで、夜は遅くならない限りは食べなかったそうです。
膳は一汁一菜、1回でニ合半(お茶碗約5杯分)のご飯に味噌汁(具材はセリやかぶ、ネギなど)、おかずは梅干しや魚、鳥肉、納豆、海草や漬け物など様々ですが、足軽の身分ではおかずなしは当たり前だったようです。
ご飯は蒸した強飯(こわいい)と炊いた姫飯(ひめいい)があり、他には水分が多い雑炊などでした。
また白米は身分の高い者が食し、普通は玄米や雑穀が主食でした。
出陣するとご飯が変わる
日常は前述したような内容の食事ですが、いざ合戦となると大名から食事が支給されるため、一気に豪華になります。
ご飯は白米、もちろん味噌は食べ放題、魚や肉、野菜も豊富に提供され、塩分過多と思われるほどの濃い味付けだったそうです。
もちろんお酒も飲み放題で、時には普段は手に入らない山海の珍味も提供されました。
合戦中の兵糧としては、お握りが頭に浮かびますが、白米を握っただけの握り飯は日保ちしないため、非常食にはなりませんでした。
味噌玉(焼き味噌を1食分づつ丸めたもの)、兵糧丸(米やそば粉、豆、魚粉などに塩を入れてこねて団子状にしたもの)、芋茎縄(いもがらなわ、里芋の茎を味噌でにて乾燥させたもの)を腰に巻き付けたりしてこれを食しながら戦に挑んでいたそうです。
戦国時代の女性たち
NHK大河ドラマなどで描かれる戦国時代の女性は戦に出る夫や子供を送り出し、しっかりと家を守るイメージで描かかれていますが、実際はどうだったのでしょうか?
農村では戦があると足軽や荷駄衆として男が戦場へ出るため、村の行事や冠婚葬祭、農作業なとば全て女性中心でおこなわれました。
また男女の人工比率が7:3で女性が圧倒的に少なかったため、結婚相手を自由に選ぶことはできず、基本的には親が決めた相手に嫁いでいました。
これは武家の女性も同じで、大名や領主の娘となれば政略結婚などで顔も知らない他国の大名との婚姻は当たり前、いわゆる人質と同じ扱いだったのです。
ただ庶民レベルの女性でも読み書きや芸事、裕福な家ならば茶道などの習い事も学んでおり、教養を持つ女性は多数存在していました。
また勇敢な女性は戦場へ出るものもおり、女性だけの鉄砲隊の存在や女武者などは書物や文献に数多く見られます。
戦国時代の流れ、年表
1467・応仁1
応仁の乱始まる
1477・文明11
応仁の乱終わる
1493・明応2
伊勢宗瑞(北条早雲)伊豆に討ち入り
1495・明応4
北条早雲、小田原城を居城にする
1516・永正13
北条早雲、相模国平定
1527・大永7
斎藤道三、守護職・土岐頼武(ときよりたけ)を追放
1541・天文10
武田信玄、父・信虎を甲斐から追放
1542・天文11
尼子対大内、第一次月山富田城の戦い
1543・天文12
種子島に鉄砲伝わる
1546・天文15
北条氏康(ほうじょううじやす)武蔵国平定
1549・天文18
フランシスコ・ザビエルによりキリスト教伝来
1553・天文22
武田信玄、信濃平定後に第一次川中島の戦い
三好長慶(みよしちょうけい)近畿をほぼ掌握
1544・天文23
甲相駿三国同盟成立(武田、北条、今川)
1555・弘治1
毛利対陶、厳島の合戦
1560・永禄3
織田対今川、桶狭間の合戦
1561・永禄4
上杉謙信、関東管領職を継ぐ
第四次川中島の戦い
1562・永禄5
清洲同盟成立(織田、徳川)
1565・永禄8
室町将軍・足利義輝、三好三人衆に暗殺される
1566・永禄9
第二次月山富田城の戦いで尼子氏滅亡
1576・永禄10
稲葉山城攻め、斎藤氏滅亡
1568・永禄11
織田信長上洛、足利義昭が15代将軍になる
1570・永禄13
姉川の戦い(織田、徳川対浅井、朝倉)
1571・元亀2
比叡山焼き討ち
1572・元亀3
三方ケ原の戦い(徳川、織田対武田)
1573・元亀4
武田信玄死去、足利義昭が追放され足利幕府滅亡
一乗谷攻め、朝倉氏滅亡
小谷城攻め、浅井氏滅亡
1575・天正3
長篠の戦い(織田対武田)
1577・天正5
上杉謙信が越中、能登を攻略
1578・天正6
上杉謙信死去
1579・天正7
安土城天守完成
1580・天正8
織田信長と本願寺が和睦
1581・天正9
天目山の戦い、武田氏滅亡
本能寺の変、織田信長死去
山崎の戦い(羽柴対明智)
1583・天正11
賤ヶ岳の戦い(羽柴対柴田)
北之庄城攻め、柴田勝家自害
1584・天正12
小牧・長久手の戦い(羽柴対徳川)
1585・天正13
羽柴秀吉、四国平定
1586・天正14
羽柴秀吉、豊臣姓を賜る
1587・天正15
豊臣秀吉、九州平定
1590・天正18
小田原攻め、北条氏滅亡
戦国時代を彩った武将一覧
最後に戦国時代を華々しく生き抜いた武将を紹介して戦国時代の説明を終わりにしたいと思います。
北条早雲(ほうじょうそううん)
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出身、駿河国の今川氏の家督争いを仲裁した頃から頭角を表し、堀越公方の跡目争いに乗じて伊豆国を奪取した後、相模国小田原を攻め取ります。
北条氏康(ほうじょううじやす)
北条早雲の孫、後北条氏3代目当主。
今川義元、武田信玄と同盟を結び、小田原城を本拠地にして関東管領職・上杉氏を戦で破り、関東に巨大な基盤を築き上げた戦国大名。
武田信玄(たけだしんげん)
甲斐源氏の嫡流である甲斐武田氏の19代当主で甲斐、信濃守護、甲斐の虎と呼ばれました。
父・信虎を追放して武田氏の当主になると信濃を平定、今川義元亡き後は駿河、遠江、三河、西上野、東美濃などを領有する戦国大名となります。
越後の上杉謙信との川中島の戦いは歴史に残る合戦となりました。
上杉謙信(うえすぎけんしん)
越後の龍、毘沙門天の化身などの異名を持つ、野戦では戦国時代最強の大名。
義に厚く、筋道を通さない事は許せない性格で、関東管領職を継ぐと無意味な関東出兵を繰り返します。
武田信玄と川中島で戦いながら、越中、能登を攻略するなど戦略的にも優秀な面を見せました。
今川義元(いまがわよしもと)
「海道一の弓取り」の異名を持つ駿河、遠江を支配した戦国大名。
今川家は足利将軍家の御一家たる吉良家の分家のため、将軍家に大事あるときはこれに代わって天下を治める血筋でした。
このため室町幕府滅亡後、万難を排して上洛の途につきましたが、尾張の織田信長に桶狭間で討たれました。
織田信長(おだのぶなが)
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、美濃の斎藤氏を滅ぼして、一気に戦国時代の主役に躍り出た尾張の風雲児。
天下統一目前に家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀叛によって本能寺で自刃。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
織田信長の家臣。
対毛利のため中国筋に出陣中に本願寺の変に遭遇するも、すぐさま毛利と和睦し取って返して明智光秀を討ち取り、信長の後継者の立場を手に入れ戦国時代を終息させました。
豊臣秀吉によって統一がなされた日本は、秀吉の死後、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、約260年泰平の世が続くことになります。